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銭形平次捕物控
ぜにがたへいじとりものひかえ
作品ID57212
副題320 お六の役目
320 おろくのやくめ
著者野村 胡堂
文字遣い新字新仮名
底本 「橋の上の女 ――銭形平次傑作選②」 潮出版社
1992(平成4)年12月15日
初出「オール讀物」文藝春秋新社、1954(昭和29)年5月号
入力者特定非営利活動法人はるかぜ
校正者結城宏
公開 / 更新2020-06-17 / 2020-05-27
長さの目安約 28 ページ(500字/頁で計算)

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本文より



「あ、八五郎親分じゃありませんか」
 江の島へ行った帰り、遅くもないのに、土蔵相模で一と晩遊んだ町内の若い者が五六人、スッカラカンになって、高輪の大木戸を越すと、いきなり声を掛けたものがあります。
「誰だい、俺を呼んだのは」
 振り返ると、海から昇った朝陽を浴びて、バタバタと駆けてきた女が一人、一行の前に廻って、大手を拡げるではありませんか。
「巴屋のお六よ、忘れたじゃ済まないでしょう。家は、大変な騒ぎ」
 女は遅立ちの旅人が、眼を聳てるのも構わず、八五郎の袂を取ってグイグイと引くのです。
「待ってくれ、無暗に引っ張ると、袖口がほころびる。家へ帰ると、叔母さんに叱られる」
「冗談じゃない。紅白粉で、裲襠を着た叔母さんがあってたまるものか。此方には人殺しがあって二三人縛られかけているんだから、来て下さいよ、親分。何んのために十手なんかブラさげて、江の島詣りをするんだい」
 女はまくし立てて、八五郎を引摺るのです。高輪車町の巴屋というのは、江戸の土産物も売り、店では一杯飲ませて、中食も認めさせますが、横へ廻ると立派な旅籠屋で、土地も家作も持ち、車町から金杉へかけての、物持として有名な家でした。
 一昨日江戸を発つとき、巴屋へ押し上がって、旅の前祝いの大騒ぎをやらかし、二人の女中、お六とお梅というのを、散々からかったことは、八五郎も忘れる筈はなく、相手のお六も、品川から朝立ちで、江戸へ戻ってきた賑やかな旅人の中から、八五郎の長んがい顎を見付けたのも無理のないことでした。
「人殺しは穏かじゃねえ。誰がどうしたんだ」
「旦那が殺されたんですよ。金杉の竹松親分が乗り込んで来て、ギョロギョロ睨め廻しているから、気味が悪くて皆んな顫え上がっていますよ。八五郎親分なら、地蔵様でも縛って行って下さるわねえ」
 三日前の晩の、羽目を外した騒ぎを知っているので、お六はすっかり八五郎を甘く見ている様子です。尤も、神田を発ったのは遅かったにしても、馴染があるとか何んとか、仲間の者に誘われて、高輪で宿を取ってしまい、『おいとこそうだ』に『炭坑節』『トンコ節』から『東京ブギ』の類いまで踊ったり唄ったり、あらゆる酔態を見せた一行の、オンド取りの八五郎が、お六に甘く見られたのも無理のないことでした。
 このお六というのは、渡り者の大年増で、中低で盤台面の、非凡の愛嬌者で、高輪の往来――遅発の旅人の、好奇の眼を見張る中から、八五郎をしょっ引いて、巴屋の店に飛び込むほどの勇気と腕力を持っていたのです。
 入って見ると、巴屋は表戸をおろしたまま、中の騒ぎは大変でした。主人山三郎は、裏庭の崖下に、石の地蔵様を抱いたまま転げ落ちて、そのうえ、刺身庖丁で首筋を深々と刺され、さらに、縞の前掛で顔を包んで、真田紐でその上を、耳から眼、鼻へかけて縛ってあるのです。
「おや、向柳原の八五郎兄哥じゃねえか」

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