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平次放談
へいじほうだん |
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作品ID | 57220 |
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著者 | 野村 胡堂 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「銭形平次捕物控(十四)雛の別れ」 嶋中文庫、嶋中書店 2005(平成17)年8月20日 |
入力者 | 特定非営利活動法人はるかぜ |
校正者 | noriko saito |
公開 / 更新 | 2015-12-29 / 2019-11-23 |
長さの目安 | 約 10 ページ(500字/頁で計算) |
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江戸のよさ
江戸のよさということを、いまの人は忘れていると思います。江戸というものは、いいものだし、たいしたものでした。
当時、両国にはたいへん猥褻な見世物があって、いまのストリップ・ショーなんか、とても追いつくものではなかったというんですね。
ところが、そこに行くのは、折助とか、やくざとか、田舎から出てきた江戸見物の人たちで、江戸の堅気の人たちは、決してそこに近づかなかった。
それから比丘尼(比丘尼姿の売女)とか、船饅頭(浜辺の小舟で売色した私娼)という下等の売春婦に、江戸の市民は決して近づかない。あそこに行くのは落ちぶれた、だらしのない生活者に限られていました。
もちろん江戸には、ずいぶんイヤなものが多く、強権でもって封建的に人を押さえつけたこともあるけれども、一方によいことも一杯ありました。江戸払いとか、江戸構えといっても、実際は名前だけで、あいかわらず江戸に入っていたそうです。つまり「叱りおく」といった程度で、江戸におることができた。かりにそれが分っても、誰も摘発なぞ、おせっかいはしませんでした。
むかしの人には、そういった一種のたしなみとか、思いやりがあったんですね。
いまの人には、他人が見ていなければ、何をしたってかまわないという気持がある。江戸の人は他人が見ていなくても、へんなことはしなかった。たとえば両国の見世物に入ったところを他人に見られようものなら、とんでもない恥としていた。こうした江戸の気風というものは、パリやロンドンあたりの伝統的な気風と、よく似ているように思われるんですがね。
江戸人には、たしなみというものが、それくらい大きな支配力を持っていた。それで私は、たしなみのある女こそ一番美しい女じゃないだろうか――というテーマで小説を書いたことがあります。
これを江戸の人は、みんな持っていました。それをいまの人は持たなくなっている。私が平次、八五郎を書くと、回顧的だとか退嬰的だとかいわれるが、それは間違いで、江戸のもつたしなみとか、江戸の所作とか、江戸の郷愁とか、これを忘れてはいけない。あれを振り返って考えることは、新しい文明をつくる上に必要なことなんだから……。
案外、日本のマゲ物小説が読まれるというのは――いまのマゲ物はチャンバラじゃない。チャンバラのマゲ物は大正末期から昭和初期のもので、いまのものは、江戸という回顧の世界のなかに、一つの理想郷を求めるという書き方になっています。――作中に、いまの世の中になくなった道徳や心構えが出てくるが、人間は誰でもノスタルジアを持っているから、それを読んで喝采をおくるんじゃないかと、私は思っています。だから日本の思想的混乱がつづく限り、もっと混乱的な、破綻的な小説よりも、かえって昔ながらの整った江戸を回顧して、読んだり書いたりするのは、むしろ当然の傾向ではないでしょうか。
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