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備後より
びんごより
作品ID57234
著者中村 憲吉
文字遣い新字旧仮名
底本 「ふるさと文学館 第四〇巻 【広島】」 ぎょうせい
1994(平成6)年2月15日
初出「アララギ」1915(大正4)年11月
入力者岡村和彦
校正者noriko saito
公開 / 更新2017-05-12 / 2017-03-11
長さの目安約 3 ページ(500字/頁で計算)

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本文より


 この峡に帰ると急に強く秋らしい日光の光線が感じられて、最初は稍物寂しく思つたが今は慣れるに従つて却つて真実に心が落著いて来た様である。山峡の秋はこれから愈々深んで行く計りだ。早稲ももうぼつぼつと刈り始められて居る。この刈跡が漸次峡底に増加えて行くといやはてには人目も草も枯れはてる寂しい冬が来るのである。それにしても自然の推移の早いに驚かざるを得ない。帰省した頃は僕の裏田にまだ稲穂が色薄くその重い姿体を保つて居たが、今日見れば全く熟れて仆れて田一面にしどろに乱れて居る。常よりも田面が目に一段低まつて見える訳である。而して仆れた稲の間からは地が露はに透いて見え中には青草の生えて居る所もある。水を落してから既に幾十日にもなるからだ。灌漑用の小川にも水が減つて岸が高くなつて居る。併しそこには野菊や紅蓼が一杯に咲いて居るのでまだ目を悦ばすことが出来る。すべてこんな花でもこの峡の中では懐しい花なのである。実を云へば僕の村では秋の中頃は却つて世間が生々として生活の豊富な感のされる時である。田のもの畑のもの山のもの、柿、栗、蕈、その他の木の実、僕の村では自然物の収穫物は殆ど挙げて秋期の種類のものに限られて居ると云つても好い。香茸などは最も豊富で今が盛りの様だ。それから村祭が所々であり出す。あの谷の里、この峡の部落部落で小さな賑騒が聞える。哀れな程である。その里の氏神祭も近づいて居るから太鼓のならしの撥音が毎夜毎夜響いて居る。これから酒がよく売れ出す。酒屋で貸樽の準備と小銭の保存が必要になつて来る。通俗に満作と云ふ塩魚が村に沢山這入つて来だした。これはこの近在では百姓の祭魚になつて居る魚である。原名は「しいら」と云ふのであるが「しいら」とは又不毛の穀物を意味するので斯様に忌んで居るのも面白い。石州雲州の海岸で獲れるものをその夜即座に塩物にして売りに来るのである。或は荷車に積み或は天秤で担いで一日に五里六里と歩いて中国山脈の山の奥へ奥へと売込んで来るのである。春の若布、冬の海苔を売りに戸口に立つものには若い婦人が多いけれど秋の満作売には不思議に禿げて頭のてかてかと光つた老人が多い様である。今日もさう云ふ商人が一両人来て去つた。兎に角かうした賑かな暮しが続くのもただ山峡が紅葉のいろに映え光つて居る間だけである。やがて山の木の葉が落ちると峡はからんとして而してげつそりと寂しくなる。山には落葉樹が多いからである。今ももう裏向うの山にはいち早く二三本が紅葉に染まつて見える。併しこれはあてにはならない。漆の木だから。とは云へ他の雑木の秀枝は既にほんのりと黄ばんで居るのである。久振で郷里の紅葉も見たく思ふが駄目である。近日出発して帰京しようと思つて居る。
(十月八日)



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