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![]() ぜにがたへいじとりものひかえ |
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作品ID | 57249 |
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副題 | 297 花見の留守 297 はなみのるす |
著者 | 野村 胡堂 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「鬼の面 ――銭形平次傑作選③」 潮出版社 1992(平成4)年12月15日 |
初出 | 「オール讀物」文藝春秋新社、1953(昭和28)年3月号 |
入力者 | 特定非営利活動法人はるかぜ |
校正者 | noriko saito |
公開 / 更新 | 2020-06-07 / 2020-05-27 |
長さの目安 | 約 29 ページ(500字/頁で計算) |
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一
「親分、向島は見頃だそうですね」
ガラッ八の八五郎は、縁側からニジリ上がりました。庭いっぱいの春の陽ざし、平次の軒にもこの頃は鴬が来て鳴くのです。
「そうだってね、握り拳の花見なんかは腹を立てて帰るだけだから、お前に誘われても付き合わねえつもりだが――」
平次は相変らず世上の春を、貧乏くさく眺めているのでしょう。
「へッ、不景気ですね、銭形の親分ともあろうものが――。駒形の佐渡屋が、三日に一度でも、七日に一度でも宜い、銭形の親分が見廻ってくれたら、用心棒代と言っちゃ悪いが、ほんの煙草銭だけでも出しましょうと、執こく持込んだのも断ったでしょう」
「馬鹿なことを言え。金持の用心棒になるくらいなら、俺は十手捕縄を返上して、女房に駄菓子でも売らせるよ。向島へ誘い出そうというのも佐渡屋に誘われたのじゃないか。あすこには結構な寮がある筈だが」
「呆れたものだ」
「俺の方がよっぽど呆れるよ。そんなに向島が眺めたかったら、縁側に昇って背伸して見ろ、梁に顎を引っかけると、丑寅の方にポーッと桜が見える――」
「冗談言っちゃいけません。いくら背伸したって、明神下から向島が見えますか」
「見えなきゃ諦めろ、ロクロッ首に生れつかなかったのが、お前の不運だ」
「有難い仕合せで」
額を平手で叩いて舌をペロリと出しながらも八五郎は諦めてしまいました。この上セガむと平次は花見の入費に女房の身の皮を剥ぎかねないのです。正月からの交際や仕事の上の諸入費で、親分の平次が首も廻らないことを、八五郎はよく知っていたのです。
それでも諦め兼ねたものか八五郎は、良いお天気に誘われて、フラフラと向島に行ったのも無理のないことでした。
駒形の地主で佐渡屋平左衛門、実は八五郎に旨を含めて、その日向島諏訪明神裏の寮に花見ということにして銭形平次をつれ込み、一杯御馳走した上で、平次に頼みたい用事があったのですが、金持に誘われてノコノコ呑みに出かける平次でもなく、うまく持ちかけた八五郎の誘いもはぐらかされて、仕様ことなしに、八五郎一人だけ、佐渡屋の寮に面目しだいもない顔を持込んだわけです。
「まアまア宜い、八五郎親分も気になさることはない。余計な細工をして、堅いので通った銭形の親分を、おびき出そうとしたのが悪かったよ。まアまア花でも見ながら、ゆっくり呑んで行って下さい」
佐渡屋平左衛門は、まことによくわかった旦那でした。その頃の大通の一人で、金があって智恵があって、男前が立派で、よく気がつくのですから、誠に申分のない人柄でした。
「ところで、親分に御相談というのは、どんなことでしょう。あっしでは役に立ちませんか。花を眺めて、御馳走になりっ放しじゃ、気になりますね」
寺島村の田圃から、遠く桜の土手を見晴らした南座敷に、佐渡屋平左衛門と八五郎は相対しました。このとき主人の平左衛門は四十前後、色の浅黒い…