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塩の風趣
しおのふうしゅ
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「中谷宇吉郎集 第七巻」 岩波書店
2001(平成13)年4月5日
初出「オール読物 第七巻第四号」文藝春秋新社、1952(昭和27)年4月1日
入力者kompass
校正者岡村和彦
公開 / 更新2018-09-12 / 2018-08-28
長さの目安約 13 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 戦争前の話であるが、京橋のあたりに、K鮨という鮨屋があった。材料がよいというので、たいへん評判がよかった。
 亡くなった岩波さんは、人に御馳走をするのが道楽であって、よく方々へ連れていって、御馳走をしてくれたものである。K鮨もその一つであった。北海道から出てくると、東京の御馳走は、どれもこれもうまいし、それに味覚のそう発達していない私には、こういう御馳走は、少しもったいないくらいであった。しかし御馳走になるのは悪いものではなく、それに先方が御馳走をするのが道楽の場合には、両者の利害が完全に一致するので、よく方々へ案内してもらったものである。
 K鮨は、評判どおりに非常に鮮しい材料を使うので、たいへんうまかった。料理台の上にのっていた、一尺立方くらいの鮪の切身の色の美しさなど、今でも記憶にのこっているくらいである。値段はもちろん相当なものらしかったが、魚の種類によっては、産地または漁船まで、特別に使を出して買いこんでいるということで、少しくらい高くても、むりもない話であった。
 ところでK鮨で、いちばん印象に残っているのは、生烏賊であった。というよりも、それにふりかける塩といったほうがいいかもしれない。生烏賊の握りには、醤油はつけさせず、食塩をふりかけてくれるのであるが、その食塩が非常に美しくかつさらさらしていて、味もまたきわめてよかった。苦味はぜんぜんない。妙に甘味があって、塩のうまさというものは、こういうものかと感心したくらいであった。今から考えてみれば贅沢な話であるが、この塩は、英国からとり寄せたもので、ドーヴァーの塩だという話であった。ドーヴァーの塩でも、日本の塩でも、塩にかわりはないから、そういう気障なことをいうのは、下等な商業政策だとけなされるかもしれないが、そう簡単にはいえないようである。女学校の割烹では、塩は塩化ナトリウムだと教えるかもしれないが、海水から採った普通の塩は、決して純粋な塩化ナトリウムではない。だから食塩にいろいろの種類があっても、ちっともふしぎではないのである。もちろん主成分は塩化ナトリウムであるが、俗にいう苦汁すなわち塩化マグネシウムが、粗製塩には、かなりの量はいっている。本当は苦汁には、塩化マグネシウムのほかに、いろいろなものがはいっているのであるが、話を簡単にするために、塩化マグネシウムで代表させておくことにする。
 この塩化マグネシウムを多量に含んだ苦汁は、その名のごとく、非常ににがいものである。このごろ街で売っている沢庵が、食べたあと、舌に苦味が残るのは、たぶん苦汁分の多い粗製塩を使うからであろう。普通の塩は、塩化ナトリウムの結晶の表面に、六分子の結晶水をもった塩化マグネシウムの皮膜がかぶさっているものである。
 海水の成分は、あんがいに複雑なもので、塩化ナトリウムや塩化マグネシウムの他に、ずいぶんいろいろなものがは…

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