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『ケプロン・黒田の構想』について
『ケプロン・くろだのこうそう』について |
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作品ID | 57266 |
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副題 | ――英文誌 This is Japan のための草稿―― ――えいぶんし This is Japan のためのそうこう―― |
著者 | 中谷 宇吉郎 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「中谷宇吉郎集 第八巻」 岩波書店 2001(平成13)年5月7日 |
入力者 | kompass |
校正者 | 砂場清隆 |
公開 / 更新 | 2016-09-25 / 2016-06-10 |
長さの目安 | 約 8 ページ(500字/頁で計算) |
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黒田構想
一八六八年は、日本が中世の封建制度から脱却して、近代世界へはいった年として、日本の歴史の上で、一番重要な年である。われわれは、これを明治維新といっている。
明治政府が、その創設と同時に着眼したのは、北海道である。北海道は、その他の日本全土の三分の一の面積をもつ大きい島であって、当時はエゾと呼ばれていた。このエゾの島は、全島が千古の密林におおわれ、沿岸の海は豊富な魚で満ちていた。地下資源もきわめて豊かと推察された。
後の黒田長官は、明治三年(一八七〇年)に北海道開拓次官に任命されたが、彼は、当時の日本の三分の一に当る、この広漠かつ未開の土地の開発に、まったく新しい構想をたてた。それは範をアメリカの開発に求めたことである。百年前のアメリカは、まだ東部だけに限られていた国で、中部および西部は、開発途上にあった。その活溌な開発様式を、北海道に導入する計画をたてたのである。
明治三年に、彼はこの地位につくや、直ちに訪米の案をたて、翌年の明治四年(一八七一年)に、自らアメリカへ渡った。当時、彼は三十一歳であった。この若い政治家は、ときの大統領グラントに会い、自分の構想を打ち明け、しかるべき人の推挙を頼んだ。そのときグラントは、まことに驚くべき人を推薦した。それはときの米国農務省総裁のホーレス・ケプロンであった。ケプロンはすでに六十七歳、現職の農務大臣である。黒田次官は、ケプロンを訪ね、誠意と情熱をかたむけて、北海道開発の顧問として、札幌へ来訪されることを懇請した。
ケプロンは、外のもう三名の顧問とともに、この年に来日、直ちに北海道開発の構想をたてた。まず首都をきめる必要がある。当時札幌がすでに全北海道の首都となっていたが、ケプロンは、まず気候条件や立地条件の調査をして、札幌が将来、大都市として発展し得る条件に適していることを確かめ、首都を札幌と確定した。
黒田次官は、ケプロンの助言を率直に受け入れ、万事彼の意志どおりに仕事をさせた。この二人ははじめから肝胆相照らした仲であり、明治八年(一八七五年)に、ケプロンがりっぱにその任を果たして帰国するまで、その友情は変らなかった。
ケプロンの功績
ケプロンが最も重視したのは、調査であって、北海道の気候、土質、地質などを、十分に調べ、その資料に基づいて、科学的かつ組織的な開発を行なうべきだと提唱した。黒田長官は、この助言により、当時としては、非常に巨額の経費をかけて、開発事業に打ち込んだが、何といっても、日本ではじめての事業であり、日本内地全体が鍬一丁の農作を営んでいた時代のことであるから、まず、必要なのは、技術者である。それで、黒田長官は、思い切って、多数の外人技術者を招聘した。彼の在任中に招いた外国人は全部で七十五名に及び、そのうちの四十五名はアメリカ人であった。
ケプロンは、調査を進めると同時…