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寅彦の遺跡
とらひこのいせき
作品ID57272
著者中谷 宇吉郎
文字遣い新字新仮名
底本 「中谷宇吉郎集 第八巻」 岩波書店
2001(平成13)年5月7日
初出「西日本新聞」1955(昭和30)年8月10日夕刊
入力者kompass
校正者砂場清隆
公開 / 更新2015-12-31 / 2015-09-01
長さの目安約 3 ページ(500字/頁で計算)

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本文より


 高知へ着いた日に、すぐ寺田紀念館で、御親戚の方や、寅彦を敬愛する人たちと、座談会の準備がしてあった。
 紀念館は、先生の旧宅のあとに建てられたもので、昔の名残としては、庭の一部と先生が子供の頃勉強された離れ部屋が一ツ残っているだけである。旧宅は全部戦災で焼けてしまった。
 新しい紀念館は、戦後顕彰会の手で建てられたもので、中は全くのがらん洞である。遺品や先生ゆかりの品などは、全部戦災で亡われてしまったのであろう。庭もひどく荒れ果てていて、今は昔の面影も残っていないそうである。
 こういう紀念館などというものは、国か地方かから、恒久的な補助がある場合でないと、なかなか維持出来ないもののようである。集られた人たち、即ち寅彦を愛する人たちの口から、そういう意味のことが、淋しげに洩らされていた。
 しかし二日ばかり、そういう方たちと、寅彦の「遺跡」巡りをしているうちに、私は一つの発見をした。それは寅彦の遺跡は、高知市及びその近郊の至るところにあるが、それは建物や銅像の形ではなく、人々の心の中にある、ということである。
 図書館長のK氏を含め、現在四人ばかりの手で、寅彦の郷土随筆の編集及びその考証の計画が進められている。その方たちと、ほとんどまる一日自動車を走らせたが、到るところで、若き日の寅彦の像が、この人たちの頭の中に蘇って来るのに、むしろ驚嘆の念を禁じ得なかった。
 高知城の石垣のほとりには『花物語』の昼顔が今日もやはり咲いている。小学生の寅彦が「母にねだって蚊帳の破れたので作って貰った」捕虫網を肩にして、この城山の奥の、苔むした石段を下って来る。常山木の幹でとらえた見事な甲虫はいかめしい角を立てて虫籠の中にいる。そして美しい蝙蝠傘をさした母子に会うのは、この石段の下である。
 街を一歩出ると、青田がずっとつづいている。そこには、寅彦の幼時の夢を破った虫送りの太鼓の音が、今は消えている。ただ「冬夜の田園詩」に民族的記憶の名残を止めた「キータヤーマ・ヤーケタ」の北山だけが、その向うに、昔ながらの姿を見せている。
「竜舌蘭」の家も、今は全く昔の面影もないそうである。唯一つ残っているものは、病身の寅彦が「体が段々落ちて行くような何とも知れず心細い気が」して眺めた「天井に吊るした金銀色の蠅除け玉」だけである。しかし寅彦を愛する人たちには、この蠅除け玉が一つ、昔のままに天井から吊り下がって居れば、それですべてが残存しているのである。
 こういう遺跡は、永くは残らないかもしれない。しかし千万斤の石で作った遺跡とて、同じことである。
(昭和三十年八月『西日本新聞』)



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