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牧野伸顕伯の思い出
まきののぶあきはくのおもいで
著者中谷 宇吉郎
文字遣い新字新仮名
底本 「中谷宇吉郎集 第六巻」 岩波書店
2001(平成13)年3月5日
初出「文藝春秋 第二十七巻第四号」文藝春秋新社、1949(昭和24)年4月1日
入力者kompass
校正者岡村和彦
公開 / 更新2020-01-25 / 2019-12-27
長さの目安約 17 ページ(500字/頁で計算)
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本文より

 今年の正月のある晩、『リーダース・ダイジェスト』の東京支社長マッキイヴォイ氏と同席した時に、牧野さんの話が出た。
 マッキイヴォイ氏は、牧野さんのことを非常にほめていた。日本の代表的な知識人で、すぐれた民主的政治家である。そして八十九歳の老齢で、頭が少しも衰えていないと感心していた。しかし今病気だということだがどうなんだろうと心配していた。事実その時は既に牧野さんは死の床についておられたので、その後二十日くらいして、われわれは遂にこの「明治の日本」の最後の一人を失ったのである。
 牧野さんに会った人は、誰でもいうことであるが、牧野さんは、最晩年まで頭が非常にしっかりしておられた。それはまことに驚くべきことであった。時々伺うようになったのは、この六、七年来のことで、牧野さんが八十をとっくに越しておられた頃からである。しかしいつも羽織袴をちゃんとつけて、よく『日本タイムス』を読んでおられた。外国語には堪能で、眼も達者だし、耳も普通であった。始終外国の本を読んでおられたらしく、新しい思想のことや、近代の科学の話をきくことを好まれた。話をしていると、この人が西郷隆盛を知り、岩倉公の使節の一行に加わって、明治四年にアメリカへ渡った人とは、どうしても考えられなかった。
 武見太郎氏につれられて、初めて牧野さんのところへ伺ったのは、たしか今度の戦争の初め頃だったかと思う。松濤の御屋敷がまだ戦災にあわなかった前のことである。無雑作に繁った広い庭を前にした広間で、籐椅子を円く並べて、御馳走になり、夜おそくまで話した。安倍能成さんや仁科博士、藤岡博士などと一緒のことが二、三度あった。
 二・二六事件がまだそう遠い昔の話でなく、東条軍閥の勢威が一世を蓋っていた時代のことである。牧野さんはなるべく表面に出ないように静かな生活をしておられた。しかし何といっても、唯一人生き残られた明治の功臣であり、かつ家柄も高いので、日本の近代史に残る家名の人たちが多く出入りされていたようである。
 松濤の御屋敷へ伺って二度目だったか、親戚の若い者たちに話をしてくれとのことで、映画をもって行って、雪の話と、たしか気球による霧の研究の話とをしたことがある。広間と次の間と、それに縁側まで入れて、七、八十人の御客様があった。雪の映画は、アメリカへ送った英語版であった。今度の戦争中のあの空気の中で、牧野さんの邸宅で英語版の映画を見せることは、少し無鉄砲だったかもしれないが、牧野さんは非常に喜ばれた。そして若い人たちに、世界を見る眼を開かすことが大切だというようなことをいわれた。御客様の中には、御降下の宮様も二、三人おられたそうである。
 牧野さんは、いつでも世界を背景として、日本のことを考えておられた人である。インテリの定義として、人類とか民族とかいうものを背景としてものごとを考え得る人というのがある。そう…

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