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![]() にんぎょのなげき |
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作品ID | 57413 |
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著者 | 谷崎 潤一郎 Ⓦ |
文字遣い | 新字旧仮名 |
底本 |
「日本幻想文学集成⑤ 谷崎潤一郎」 国書刊行会 1991(平成3)年7月13日 |
初出 | 「中央公論」1917(大正6)年 1月 |
入力者 | HAR |
校正者 | 深白 |
公開 / 更新 | 2024-07-24 / 2024-07-14 |
長さの目安 | 約 38 ページ(500字/頁で計算) |
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むかし/\、まだ愛親覚羅氏の王朝が、六月の牡丹のやうに栄え耀いて居た時分、支那の大都の南京に孟世[#挿絵]と云ふ、うら若い貴公子が住んで居ました。此の貴公子の父なる人は、一と頃北京の朝廷に仕へて、乾隆の帝のおん覚えめでたく、人の羨むやうな手柄を著はす代りには、人から擯斥されるやうな巨万の富をも拵へて、一人息子の世[#挿絵]が幼い折に、此の世を去つてしまひました。すると間もなく、貴公子の母なる人も父の跡を追うたので、取り残された孤児の世[#挿絵]は、自然と山のやうな金銀財宝を、独り占めにする身の上となつたのです。
年が若くて、金があつて、おまけに由緒ある家門の誉を受け継いだ彼は、もう其れだけでも充分仕合はせな人間でした。然るに仕合はせは其れのみならず、世にも珍しい美貌と才智とが、此の貴公子の顔と心とに恵まれて居たのです。彼の持つて居る夥しい貲財や、秀麗な眉目や、明敏な頭脳や、其れ等の特長の一つを取つて比べても、南京中の青年のうちで、彼の仕合はせに匹敵する者は居ませんでした。彼を相手に豪奢な遊びを競ひ合ひ、教坊の美妓を奪ひ合ひ、詩文の優劣を争ふ男は、誰も彼も悉く打ち負かされてしまひました。さうして南京に有りと有らゆる、煙花城中の婦女の願ひは、たとへ一と月半月なりと、あの美しい貴公子を自分の情人にする事でした。
世[#挿絵]は、斯う云ふ境遇に身を委ねて、漸く総角の除れた頃から、いつとはなしに遊里の酒を飲み初め、其の時分の言葉で云ふ、窃玉偸香の味を覚えて、二十二三の歳までには、凡そ世の中の放蕩と云ふ放蕩、贅沢と云ふ贅沢の限りを仕尽してしまひました。そのせゐか近頃は、頭が何となくぼんやりして、何処へ行つても面白くないので、終日邸に籠居したまゝ、うつらうつらと無聊な月日を送つて居ます。
「どうだい君、此の頃はめつきり元気が衰へたやうだが、ちと町の方へ遊びに出たらいゝぢやないか。まだ君なんぞは、道楽に飽きる年でもないやうだぜ。」
悪友の誰彼が、斯う云つて誘ひに来ると、いつも貴公子は慵げな瞳を据ゑて、高慢らしくせゝら笑つて答へるのです。
「うん、………己だつてまだ道楽に飽きては居ない。しかし遊びに出たところで、何が面白い事があるんだい。己にはもう、有りふれた町の女や酒の味が、すつかり鼻に着いて居るんだ。ほんたうに愉快な事がありさへすれば、己はいつでもお供をするが、………」
貴公子の眼から見ると、年が年中同じやうな色里の女に溺れて、千篇一律の放蕩を謳歌して居る悪友どもの生活が、寧ろ不憫に思はれる事さへありました。若しも女に溺れるならば、普通以上の女でありたい。若し放蕩を謳歌するなら、常に新しい放蕩でありたい。貴公子の心の底には、斯う云ふ慾望が燃えて居るのに、其の慾望を満足させる恰好な目標が見当らないので、よんどころなく彼は閑散な時を過して居るのでした。
しかし、世[#挿絵]の…