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動物界における善と悪
どうぶつかいにおけるぜんとあく
作品ID57424
著者丘 浅次郎
文字遣い新字新仮名
底本 「進化と人生(上)」 講談社学術文庫、講談社
1976(昭和51)年11月10日
初出「教育学術界」1902(明治35)年12月
入力者矢野重藤
校正者y-star
公開 / 更新2017-04-21 / 2017-03-11
長さの目安約 14 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 善とは何か、悪とは何か、善はなにゆえになすべきか、悪はなにゆえになすべからざるか等の問題は、すでに二千何百年も前のギリシア時代から今日にいたるまで、大勢の人々の論じたところであるが、昔の賢人の説いたところも、今の学者の論ずるところも、みな万物の霊たる人間についてのことばかりで、他の動物一般に関したことはほとんど皆無のようであるから、この点について日ごろ心に浮かんだことを試みに短くここに述べてみよう。
 動物には単独の生活をなすものと、団体を造って生活するものとあるが、全く単独の生活をなす動物の行為は、善悪の二字をもって批評すべき限りでない。世人は狼が羊を捕えて噛み殺すのを見れば、羊の苦しみを憐れむ心から狼の所行を悪と名づけたく感ずるが、これは罪なき他人を害する人間を悪人と呼ぶのから連想したことで、単に狼のみについて言えば、その羊を食うのはあたかも人間が飯を食うのと同じく、ただ生活に必要なことをするというだけで、善とも名づけられねば、また悪とも名づけられぬ。かかる動物では各自の行為の結果は、ただその個体自身に影響をおよぼすだけで、成功しても他に利益を与えることもなく、失敗しても他に迷惑をかけるでもなく、強ければ栄え、弱ければ滅び、たれの恩をこうむることもなく、たれの巻き添えに遇うこともない。それゆえ、かりに身をこの境遇において想像してみると、善悪という文字は全くその意味を失ってしまう。
 また団体生活の充分完結している動物、たとえば蟻、蜂等のごときものの行為も善悪をもって評しがたい。なぜというに、これらの動物では各個体はただその属する団体の一分子としてのみ価値を有し、団体を離れ、単に個体としては少しも特別の個体価値を認めることができぬ。すなわち各団体はあたかも一の意志を持った個体のごとくに働き、これを組み立てている各個体はあたかも個体を造り成せる細胞のごとく、単に団体の意志に従うて働くのみである。言を換えていえば、これらの動物では各個体の精神は個体の利害のみに重きをおく小我の境を脱して、自己の属する全団体の維持繁栄を目的とする大我の域に達しているのである。蜂や蟻が終日忙わしく食物を探し集めたり、幼虫の世話をしたり、勉強しているのはすべて自分の属する団体のために役に立つばかりで、一つも直接にその一身のためにはならぬ。またもはや団体にとって無用となった個体は、他のものが集まって容赦なく殺し片づけてしまい、決して単に蟻であるから、あるいは蜂であるからというだけの理由で、蟻格を尊ぶとか蜂権を重んずるとかいう名義のもとにこれを助けておくことはない。たとえば雄蜂のごときは種属の維持には欠くべからざるもので、生殖作用のすんだ後の雄蜂は蜂仲間から考えたら、実に元勲とも称すべき者であるにかかわらず、もはや団体にとって無用であると定まった以上は、直ちに団体から殺し捨てられること…

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