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絶対的人格
ぜったいてきじんかく |
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作品ID | 57441 |
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副題 | 正岡先生論 まさおかせんせいろん |
著者 | 伊藤 左千夫 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「子規選集 第十二巻 子規の思い出」 増進会出版社 2002(平成14)年11月5日 |
初出 | 「馬醉木 第三卷第一號」1906(明治39)年1月1日 |
入力者 | 高瀬竜一 |
校正者 | hitsuji |
公開 / 更新 | 2019-09-17 / 2019-08-30 |
長さの目安 | 約 8 ページ(500字/頁で計算) |
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子規子の世を去るなり、天下の操觚者ほとんど筆を揃てその偉人たることを称す、子規子はいかなる理由によって偉人と称せられたるか、世人が子規子を偉人とするところの理由いかんと見れば、人おのおのその言うところを異にし、毫も帰一するところあるなく、しこうしてただその子規子は偉人なりという点においてのみ、一致せるの事実を見たるは最も味うべき点なりとす。
しかり世人は相当の理由を有して、子規子の偉人たるを断定せるものにあらず、ただ無意識の間にその偉人たることを感じたるなり、子規子は真に偉人なりし、偉人なるがゆえに、世人がその偉人たるを感じたるは、これすなわち理屈にあらずして事実なり、決定の自然これに過ぎたるはなし、何となれば、太陽なるがゆえに太陽たるを感じ、明月なるがゆえに明月たるを感ずると等しければなり、これに理由を云々するがごときは要するに人間の小理屈のみ。
されば単に子規子を偉人なりというに対しては、何らの説明を要せず、しかれども世に子規子を仰ぎ子規子を信ずる人々にありては、単にその偉人たるを知覚せるのみにては、もとより満足しがたきものあるべし、ことに親しく左右に侍してその感化を蒙れる吾々においては、その偉人の実質を考定してこれを吾人に告ぐるの義務あるを感ぜざるを得ず。
世上の多くは、子規子の事業を云々し、子規子の議論を云々し、子規子の製作を云々す、しかれども予をもって見れば、これらの事実をもって子規子を偉人なりというは当らず、何となれば、俳句は元禄に興り天明に進歩し、明治に中興せり、子規子の事業と言わばその俳句中興の主動者たるにあり、その成功も決して小ならずといえども、それをもって子規子を偉人なりといわば偉人なるものはあまりに小なり、その議論においてももちろん偉とするに足るものあることなし、その製作は俳句を主とし写生文、歌、雑筆等なりといえども、主なる俳句についていうも、芭蕉もしくは蕪村に対して、容易にその優劣を定めがたきものあるべし、もちろん芭蕉、蕪村に有せざるものも子規子に多からんが、子規子に有せざるものの芭蕉、蕪村に多きもまた明なり、写生文、歌、雑筆等においては、これを偉人の事業としては、むしろ論ずるに足らずというを適当なりとせん。
しからば子規子は、何をもって偉人なるか、予の考うるところをもってせば、一、天稟之脳力、二、絶対的態度すなわちこれなり。
子規子の脳力
子規子一度文壇に現われて、その発程の途に上るや、精透なる研究猛烈なる活動、一刻の停滞なく寸時の休止なし、日をもって覚醒し月をもって進歩し、議論と製作と年をもって変化す、昨年の標準は決して今年の標準にあらず、今年の標準もとより明年の標準なるあたわず、議論に実行し製作に経験し、覚醒となり進歩となり、年を経るに従っていよいよ勢力を加えつつ、最終に至るまでいささかの滞溜を見ざりしは、実に子…