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竹の里人〔一〕
たけのさとびと〔いち〕
作品ID57447
著者長塚 節
文字遣い旧字旧仮名
底本 「長塚節全集 第五巻」 春陽堂書店
1978(昭和53)年11月30日
初出「馬醉木 第七號」1903(明治36)年12月23日
入力者岡村和彦
校正者高瀬竜一
公開 / 更新2016-09-27 / 2016-06-10
長さの目安約 8 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

○先生と自分との間柄は漸く三十三年からのことで極めてあつけないことであつた。それも自分がいつも京住まひで三日あげずに先生のもとへ往復が出來るならば格別であるが何をいふにも交通の不便な土地なので、割合に近い所であり乍ら思ふやうには訪問することも出來なかつた。併し年に四五回位は上京して時には一ヶ月も滯在したこともあつて、勿論その間といふものは殆んど隔日位に詰め掛けて、隨分と小言もいはれたことであるから、思ひながらも遂に一目も見られなかつたといふ僻遠の人々から云つて見れば、自分はいくら幸であつたか知れない。先生から聞いたことはいつでも珍らしく思つて居たのだから、その時々のことを日記のやうなものにして置きたいと思つたことは再三のことであつたが一度も實行したことがない。これは自分が性來の懶惰なるに因るのであるが、一つは頭の惡い爲めでもあつた。厭だと思ふと迚ても仕事が出來ない。精力といふものは殆んど持つて居らぬかと怪まれる計りであるが、そこが今になつて考へて見ると遺憾極まることであるが、なに一つ記して置かなかつた理由なのである。それに先生を訪問すると日中行つても、晩方行つても必ず夜更けまで居る。自分のいつも居たのは根岸からいへば上野の山の向うで不忍の池のほとりであつたから、先生を訪問するものゝ中では先づ一番近い所であつたが、歸つてくると淋しい通りは益々淋しくなつて、家の者はもうぐつすり寢込んだといふ時分であつた。左千夫君などは内へ着くと三時が鳴つたなどといふ事があつたやうに聞いたが、敢て珍らしいことでもなかつた。そんな鹽梅で先生を訪問すればいつでも夜更になる。これは自分に取つては非常に無理なことで、一晩夜更しをすれば二三日位は頭がぼんやりしてはし/\仕ない。それがまた隔日に行きたいといふのだから、到底日記を認めるなどといふことの成就すべきものではなかつた。それのみならず上京中はなんでも無駄に日を過すまいといふ考なので、根岸へ行かなければ本所へ行くとかどこへ行くとかで薩張り落着かない。左千夫君と話を始めるとこれも長くなつて果てしがない。泊り込んでは夜更しである。明れば連れ立つて根岸へ行くといふので考へて見ればおかしなことであつた。いつであつたか左千夫君も先生の言はれることは一寸した事柄でも深く玩味すべきものである、もうこのさきいくらも存命でない先生のことであるから、今のうちに注意して一々筆記して置かなければならないといふやうなことを云れたやうであつたが、後に立ち消えになつたやうである。それから先生の柩の傍で通夜をした折いろ/\雜談があつたが、その時の虚子君の話にもいつも來る度にその日のことを書いて置かうと思つては、歸ると疲れて仕舞つて果さなかつたと云はれたが、さうして見ると自分ばかりが出來ないのでは無くつて、後ではいづれも遺憾に思つて居るのは同一であらうと思ふ。こんな鹽梅…

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