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赤倉
あかくら
作品ID57449
著者中谷 宇吉郎
文字遣い新字新仮名
底本 「中谷宇吉郎集 第一巻」 岩波書店
2000(平成12)年10月5日
初出「理学部会誌 第2号」1925(大正14)年5月21日
入力者kompass
校正者岡村和彦
公開 / 更新2021-04-27 / 2021-03-27
長さの目安約 3 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

白樺の一本見えて妙高の
野ははろばろと雲につづけり

妙高のふもと三里の高原
赤倉の野は雲につづく
夕べ静かなるおもいを抱いて
わたしは野におり立って見る
茅の間に踏みわけられた径が
いつ迄も続いて
所々が灌木の叢にかくされている
風にそよぐ二本の白樺
そのたよやかな幹によれば
「肌は真白にわがおもいに似たり」と
北信の山に育った
友の言葉も浮ばれてくる
昨年の夏の初め
その友と妙高に登ろうと
径づたいに朝露の光る草原をいった
思い出がうつつよりもあきらかに
なつかしまれる
その帰途暮れゆく高原の奥
夕靄の彼方に洩れる赤倉の灯を
望んでから一年自分の心の底に
はぐくまれて来た赤倉の野に
今おり立って夕風を抱く
夏六月妙高の雪のかげには
寒竹の筍が生うると
宿の男のいうように
陽が落ちて
黒姫妙高戸隠と
親しみ多い北信の山々の頂きが
色褪せてゆくと
夕風が薄ら寒く肌にしみて
おぼろな落葉松の林から
郭公の声がこだまして来る

ふと見れば庭に捨てたる深山草
ゆうべの雨に蕾ひらけり

窓にひらく草原の
対数曲線のうるわしさが
わたしの心を和ましてくれる
軽いつかれを涼しい風に吹かせて
うっとりと窓に寄ると
ふと
須田町の電車に寄せる人の波が
いくつかの対数曲線に減ってゆくと
冬彦先生の言葉が憶い出される
須田町の雑沓満員の電車
都会人の焦燥と和みのない生活と
鋭い利己心ともっともらしい理窟と
高い矜持とあわただしい恋との
渦巻き返す都会人の生活が
赤倉の野の曲線と同じ法則に
支配されているということに
わたしは静かに神の神秘を感ずる
春寒の膝にしむ四月からの地下室の実験
疲労れたまなこに扉をあけると
外には星が燦めいて居る
愕いて家路につく大学裏の暗い道で
上野の汽笛を遠くきく時
脊の筋肉が汗ばんで軽い熱感を覚える
あれから二月
恐しい程弱り切った身と心
それをわたしはつくづくと思い見る
大いなる都会は大いなる孤独
人々はいずこにゆくか
わたしも亦どうして
焦燥の思いに身を削るのか
なぜもっと早く赤倉の野の闊さを見て
茅の生えた黒土の香をかがなかったのだろう

朝まだきに湯へゆくと
外のひややかさに硝子がくもって
立ち籠めた湯気の中に
牛乳色の朝陽がさす
今朝はまだ誰も来ないと見えて
唯一人の広い浴場の
人造石が白く乾いて
あふれる湯の脈が一条
小高くふくらみながらその上を流れている
薄青く透徹な
湯の中に四肢をのばして
その細い姿をいたわりながら
石に頭をもたせてじっとしていると
乱れた湯の面がおさまって
又湯気が真直に立のぼってくる
そしてグロテスクな木彫の亀の口から
勢よく流れ出る湯が
縮緬じわの波をつくって
皮膚に柔い感触を与えてくれる
くらくらする程上気した
病後の頭の中には
故郷の温泉地のことが浮んだり
地殻の中で湯が大きい圧力の下で
歪みながら熱せら…

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