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寅彦夏話
とらひこかわ |
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作品ID | 57463 |
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著者 | 中谷 宇吉郎 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「中谷宇吉郎集 第一巻」 岩波書店 2000(平成12)年10月5日 |
初出 | 「東京朝日新聞」1937(昭和12)年8月12~14日 |
入力者 | kompass |
校正者 | 砂場清隆 |
公開 / 更新 | 2017-11-28 / 2017-10-25 |
長さの目安 | 約 8 ページ(500字/頁で計算) |
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一 海坊主と人魂
寅彦先生が亡くなられてから二度目の夏を迎えるが、自分は夏になると妙にしみじみと先生の亡くなられたことを感ずる。大学を出て直ぐに先生の助手として、夏休み中狭い裸のコンクリートの実験室の中で、三十度を越す炎暑に喘ぎながら、実験をしていた頃を思い出すためらしい。
先生は夏になると見違えるほど元気になられて、休み中も毎日のように実験室へ顔を出された。そしてビーカーに入れた紅茶を汚なさそうに飲みながら、二時間位実験とはとんでもなくかけはなれた話をしては帰って行かれた。
夏休みのある日のことであった。その日は何かの機縁で化物の話が出た。
僕も幽霊のいることだけは認める。しかしそれが電磁波の光を出すので眼に見えるとはどうも考えられない。幽霊写真というようなものもあるが、幽霊が銀の粒子に作用するような電磁波を出すので写真に写るという決論にはなかなかならないよ。幽霊写真位、御希望ならいつでも撮ってみせるがね。海坊主なんていうものも、あれは実際にあるものだよ、よく港口へきていくら漕いでも舟が動かなかったという話があるが、あれなんかは、上に真水の層があって、その下に濃い塩水の層があると、その不連続面の所で波が出来るためなんだ。漕いだ時の勢力が全部その不連続面で定常波を作ることに費されてしまうので、舟はちっとも進まないというようなことが起るのだ。確かそんな例がナンセンの航海記にもあったようだし、ノルウェーかどこかの物理学者でその実験をした人もあったよ。だから海坊主の出る場所は大抵河口に近い所になっている。もっとも海坊主にも色々種類はあるだろうがね。
人魂なんか化物の中じゃ一番普通なものだよ。あれなんかはいくらでも説明の出来るものだ。確か、古い Phil. Mag.(物理の専門雑誌)に On Ignis fatuus という題の論文があるはずだが。Ignis fatuus というのは人魂のことだよ。誰か探して読んで見給え。
それで早速図書室へ行って探してみたら、果して見付かった。読んでみたら、その著者が人魂に遭ったので、ステッキの先をその中に突っ込んでしばらくして抜いて、先の金具を握ってみたら少し暖かかったとかいう話なのである。
二、三日して先生が見えた時に、その話をして、要するにそれだけのことで案外つまらなかったといったら、大変叱られた。
それがつまらないと思うのか、非常に重要な論文じゃないか。そういう咄嗟の間にステッキ一本で立派な実験をしてるじゃないか。それに昔から人魂の中へステッキを突っ込んだというような人は一人もいないじゃないか。
先生の胃のためには悪かったかも知れないが、自分にとってはこれは非常に良い教訓であった。自分は急に眼が一つ開いたような気がした。
二 線香花火と金米糖
この話もその頃、もう十年以上も昔の夏休み中の話である。…