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子規と和歌
しきとわか
作品ID57469
著者伊藤 左千夫
文字遣い新字新仮名
底本 「子規選集 第十二巻 子規の思い出」 増進会出版社
2002(平成14)年11月5日
初出「中央公論 第二十二卷第九號」1907(明治40)年9月1日
入力者高瀬竜一
校正者きりんの手紙
公開 / 更新2018-10-14 / 2018-09-30
長さの目安約 8 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 正岡君については、僕などあまりに親しかッたものですから、かえって簡単にちょっと批評するということ難かしいのです、そりゃ彼の人の偉いところやまた欠点も認めて居ないこともないのですが、どうも第三者の位置にあるよう、冷静な評論は出来ませんよ。
 僕も初めから正岡君とは手を握って居た訳ではないのです、むしろ反対の側にあったもので時には歌論などもやったものです、それが漸々とその議論を聴き、技倆を認め、ついに崇敬することとなりこちらから降服したという姿です、それであるから始めから友人交際であった人達よりはその偉らさを感じたことが強かったようです、従て崇敬の度が普通以上でしたろう、であるから僕の子規論などは往々人の意表に出でて、世間からは故人に佞しもしくは故人を舁いだものかのように受取られたことが多いのです。しかしながら棺を蓋うて名すなわち定まるで、いわゆる明治文壇における子規子の価値は、吾々の云々をまって知るを要せぬことになりました。
 今日新派といわるる人々と正岡君の和歌との関係ですか、僕の考えでは与謝野一派、竹柏園の一流、その他尾上、金子などの一流とすなわち今日のいわゆる新派とはほとんど関係がないと思います、第一趣味の根底が違ってますからね。
 どう違う? それは趣味上の問題ですから一言にして尽しがたいが、今日の新派の人々のなすところを見ると、歌を作くるの前にその作り出づべき題に対してまず注文を建てて居るように見えます、たとえば歌その物の価値ということを主なる目的とせないで、新しくなければいかんとか珍らしくなければつまらんとか、従来の物と是非変っていねばいかんとか、また新思想ことに西洋思想などを加味せねばならぬかのように初から考を立てておいて作って居らるるようです、むしろ詩というものの価値を、ただちにその新しい珍らしい従来に変った詩材もしくは新思想のそれに存するかのごとく考えて居らるるように見えます、かの人々の作物その物について観察するとたしかにそう見えます。
 ここがはなはだ六つかしい誤解しやすいところですから、よく注意を願います、吾々とてその新しい珍らしい変化とか新思想を毫末も嫌うのではない、ただ詩その物の価値は思想や材料やのそれに存するのではなく、ある種の思想材料に作者の技能が加った作物の成功それに存するものと信じて居るのです、いかに珍らしき新しき詩的材料を捕え得ても、その成功のいかんは必ず作者その人の霊能に待たねばならないのです。
 ただ新しく珍らしく変ってさえ[#「変ってさえ」は底本では「変ってさへ」]居ればただちに詩として面白いもののごとく思うは、詩というものの価値を根本に誤解して居るところから起る誤りでしょう、新を好む人はただ新しければよいものと思い、古いを好む人は古ければすぐによく感ずる、これらは両方とも間違って居ます、新しいにもよいのも悪いのもあ…

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