えあ草紙・青空図書館 - 作品カード
楽天Kobo表紙検索
閑山
かんざん |
|
作品ID | 57479 |
---|---|
著者 | 坂口 安吾 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「桜の森の満開の下」 講談社文芸文庫、講談社 1989(平成元)年4月10日 |
初出 | 「文体 第一巻第二号」1938(昭和13)年12月1日 |
入力者 | 日根敏晶 |
校正者 | noriko saito |
公開 / 更新 | 2019-02-17 / 2019-01-29 |
長さの目安 | 約 15 ページ(500字/頁で計算) |
広告
広告
昔、越後之国魚沼の僻地に、閑山寺の六袋和尚といって近隣に徳望高い老僧があった。
初冬の深更のこと、雪明りを愛ずるまま写経に時を忘れていると、窓外から毛の生えた手を差しのべて顔をなでるものがあった。和尚は朱筆に持ちかえて、その掌に花の字を書きつけ、あとは余念もなく再び写経に没頭した。
明方ちかく、窓外から、頻りに泣き叫ぶ声が起った。やがて先ほどの手を再び差しのべる者があり、声が言うには「和尚さま。誤って有徳の沙門を嬲り、お書きなさいました文字の重さに、帰る道が歩けませぬ。不愍と思い、文字を落して下さりませ」見れば一匹の狸であった。硯の水を筆にしめして、掌の文字を洗ってやると、雪上の蔭間を縫い、闇の奥へ消え去った。
翌晩、坊舎の窓を叩き、訪う声がした。雨戸を開けると、昨夜の狸が手に栂の小枝をたずさえ、それを室内へ投げ入れて、逃げ去った。
その後、夜毎に、季節の木草をたずさえて、窓を訪れる習いとなった。追々昵懇を重ねて心置きなく物を言う間柄となるうちに、独居の和尚の不便を案じて、なにくれと小用に立働くようになり、いつとなくその高風に感じ入って自ら小坊主に姿を変え、側近に仕えることとなった。
この狸は通称を団九郎と言い、眷属では名の知れた一匹であったそうな。ほどなく経文を暗んじて諷経に唱和し、また作法を覚えて朝夜の坐禅に加わり、敢て三十棒を怖れなかった。
六袋和尚は和歌俳諧をよくし、又、折にふれて仏像、菩薩像、羅漢像等を刻んだ。その羅漢像、居士像等には狗狸に類似の面相もあったというが、恐らく偶然の所産であって、団九郎に関係はなかったのだろう。
いつとなく、団九郎も彫像の三昧を知った。木材をさがしもとめ、和尚の熟睡をまって庫裏の一隅に胡座し、鑿を揮いはじめてのちには、雑念を離れ、屡[#挿絵]夜の白むのも忘れていたということである。
六袋和尚は六日先んじて己れの死期を予知した。諸般のことを調え、辞世の句もなく、特別の言葉もなく、恰も前栽へ逍遥に立つ人のように入寂した。
参禅の三摩地を味い、諷経念誦の法悦を知っていたので、和尚の遷化して後も、団九郎は閑山寺を去らなかった。五蘊の覊絆を厭悪し、すでに一念解脱を発心していたのである。
新らたな住持は弁兆と言った。彼は単純な酒徒であった。先住の高風に比べれば百難あったが、彼も亦一生不犯の戒律を守り、専ら一酔また一睡に一日の悦びを托していた無難な坊主のひとりであった。
弁兆は食膳の吟味に心をくばり、一汁の風味にもあれこれと工夫を命じた。団九郎の坐禅諷経を封じて、山陰へ木の芽をとらせに走らせ、又、屡[#挿絵]蕎麦を打たせた。一酔をもとめてのちは、肩をもませて、やがて大蘿蔔頭(だいこん)の煮ゆるが如く眠りに落ちた。ことごとく、団九郎の意外であった。一言一動俗臭芬々として、甚だ正視に堪えなかった。
一夕、雲水…