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妖虫
ようちゅう |
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作品ID | 57522 |
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著者 | 江戸川 乱歩 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「江戸川乱歩全集 第8巻 目羅博士の不思議な犯罪」 光文社文庫、光文社 2004(平成16)年6月20日 |
初出 | 「キング」大日本雄弁会講談社、1933(昭和8)年12月~1934(昭和9)年10月 |
入力者 | 金城学院大学 電子書籍制作 |
校正者 | 入江幹夫 |
公開 / 更新 | 2021-10-21 / 2021-09-27 |
長さの目安 | 約 245 ページ(500字/頁で計算) |
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青眼鏡の男
熱帯地方に棲息する蠍という毒虫は、蜘蛛の一種であるけれど、伊勢海老を小さくした様な醜怪な姿をしていて、どんな大きな相手にも飛び掛って来る、凶悪無残の妖虫である。そいつが獲物を見つけると、頭部についている二本の鋏で、相手をグッと圧えつけて置いて、節になった尻尾を、クルクルと弓の様に醜くそらせて、その先端の鋭い針で、敵の体内に恐ろしい毒汁を注射するのだ。この毒虫にかかっては、人間でさえも気違いの様に踊り出して、踊り狂って、遂には死んでしまうということである。
この奇怪な物語の主人公は、その蠍である。イヤ蠍にそっくりの人間である。彼はそのことを寧ろ得意に感じていたと見えて、蠍が背中を曲げて敵に飛びかかろうとしている醜い姿を、彼自身の紋章として使用したのだ。しかも、もっと不気味なことには、世人は蠍の紋章を見せつけられるばかりで、それを使用している極悪人の正体を全く掴み得ないことであった。身も心もきっと蠍の様に醜怪な獰悪な奴に違いないとは想像しても、そいつの正体がまるで分らないものだから、目に見える蠍などよりは、幾層倍も気味悪く恐ろしく感じられた。新聞が「妖虫事件」という異様な見出しをつけて、この事件を報道したのも尤もであった。そいつは「妖虫」の名に価する怪人物に相違なかった。
では「妖虫事件」というのは、一体どの様な出来事であったか、それを語るには、順序として、先ず大学生相川守の好奇心から説き起すのが、最も適当かと思われる。
相川青年は、多くの会社の重役を勤め事業界一方の驍将として人に知られている相川操一氏の長男であって、大学法科の学生なのだが、彼の妹の珠子などが「探偵さん」という諢名をつけていた通り、人一倍好奇心が強くて、冒険好きで、所謂猟奇の徒であったことが、彼の長所でもあり弱点でもあった。ある晩のこと、日本橋区のある川沿いの淋しい区域にある、料理のうまいのと価の高いのとで有名なソロモンというレストランの食堂に、相川青年と、妹の珠子と、珠子の家庭教師の殿村京子との三人が、食卓を囲んでいた。月に一度ずつ、珠子が兄を誘って、殿村京子をどこかへ案内して御馳走する慣わしになっていて、今夜はソロモン食堂が選ばれたのだ。
珠子はまだ女学生であったから、けばけばしい身なりを避けていたけれど、でも鶯色のドレスが美しい身体によく似合って、輝くばかりの美貌は人目を惹かないではいなかったし、兄の守も、同じ血筋の美青年で、金釦の制服姿も意気に見えたのに比べて、殿村京子だけは、服装も地味な銘仙か何かで、年輩も四十を越していたし、その上容貌は醜婦と云っても差支なかった。額が広過ぎる程広くて、眉が薄く、平べったい鼻の下に、上唇が少しめくれ上って兎唇になっていた。それを、青白くて上品な顔色と、知識のひらめきとが救ってはいたけれど。
「マア、先生、何をそんなに見つめていら…