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青竹
あおだけ |
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作品ID | 57535 |
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著者 | 山本 周五郎 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「山本周五郎全集第十九巻 蕭々十三年・水戸梅譜」 新潮社 1983(昭和58)年10月25日 |
初出 | 「ますらお」大陸講談社、1942(昭和17)年9月 |
入力者 | 特定非営利活動法人はるかぜ |
校正者 | 北川松生 |
公開 / 更新 | 2022-07-03 / 2022-06-26 |
長さの目安 | 約 30 ページ(500字/頁で計算) |
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一
慶長六年の夏のはじめ、近畿地方の巡察を命ぜられた本多平八郎忠勝は任をはたした帰途、近江のくに佐和山城に井伊直政をたずねて数日滞在した。ふたりは徳川家のはたもとで酒井榊原とともに四将とよばれ、いく戦陣ともに馬をならべて戦ってきたあいだがらである。一日は琵琶湖に舟をうかべて暮し、あくる日は伊吹の山すそで猪狩りをした、また鈴鹿の山へ遠駆けをして野営のいち夜にむかしを偲んだりもした。心たのしく、こうして四五日をすごしたのちいよいよ明日しゅったつというまえの夜だった。城中で催された別れの宴がようやくさかんになりはじめたとき、忠勝がふと思いだしたというようすで、
「関ヶ原のおりに島津軍の阿多ぶんごを討ちとめた若者はこの席に出ているか」とたずねた。直政はちょっと返辞ができなかった、忠勝のいうその若者が誰だかわからないからである、それでかれは話題をはずして答えた、「阿多豊後という名を聞くと島津惟新を討ちもらしたことを思いだす、もう一歩というところだった、まことおれのこの手で入道の衿がみをもつかむところだった」「まったく、おぬしとはずいぶん戦塵をあびてきたが、あれほどすさまじい合戦はみかたが原いらいであろう」話は関ヶ原のことに集った。
慶長五年九月十五日午後一時、金吾中納言ひであきのねがえり反撃によって石田三成の陣は総くずれとなり、午前四時からはじまった合戦はそのときまさに徳川軍の勝ち目を決定した。ほとんど乱戦となった戦場の一角で、本多忠勝と井伊直政とは僅かな手兵のせんとうに馬を駆り、島津惟新義弘の軍へきびしくきりこんでいた。敗勢になりながら、島津の兵はじつによく戦った、しかしいかに善防したところでもはや大勢を挽回することはできない、ついに馬じるしを折り記章を捨てて牧田から西南のほうへと退却をはじめた。追いうちは急だった、惟新義弘はしばしば危地に追いつめられた、それを救うために惟新の子豊久が馬をかえして戦い本多忠勝の兵に討たれた。つぎには侍大将の阿多ぶんご盛淳が追撃兵の前にたちふさがり、――兵庫入道これにあり、島津惟新これにあり。とさけんで義弘の身代りに立った、これにぶつかったのは井伊直政の兵だったが、直政はそれが身代りだということを察し、おのれはなおも馬を煽って惟新を追った。――どうでも入道のしるしをあげるぞ。そう思ってむにむさんに突っこんだ。義弘をまもる兵たちはすでに八十余人にすぎなかった、これが牧田川の岸でめざましく防ぎ戦った、そしてもう一歩というところまできりこんだ直政は敵の銃撃にあって腰を射ぬかれ、惜しくも馬から落ちてしまった、長蛇をめのまえに見つつ逸し去ったのである。このあいだに直政の兵の一部がぶんご盛淳を討ちとめていたのであるが、乱軍のなかのことで誰が功名人であるかわからなかった、名乗って出る者もなかった、それでその部隊ぜんたいの手柄として軍鑑にしるさ…