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赤ひげ診療譚
あかひげしんりょうたん
作品ID57544
副題03 むじな長屋
03 むじなながや
著者山本 周五郎
文字遣い新字新仮名
底本 「山本周五郎全集第十一巻 赤ひげ診療譚・五瓣の椿」 新潮社
1981(昭和56)年10月25日
初出「オール読物」1958(昭和33)年5月~6月
入力者特定非営利活動法人はるかぜ
校正者北川松生
公開 / 更新2018-08-21 / 2019-02-24
長さの目安約 54 ページ(500字/頁で計算)

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本文より



 梅雨にはいる少しまえ、保本登は自分から医員用の上衣を着るようになった。薄鼠色に染めた木綿の筒袖と、たっつけに似たその袴とは、よく糊がきいてごわごわしており、初めて着たときには、人にじろじろ見られるようでかなり気まりが悪かった。
 新出去定と森半太夫は黙っていたし、彼が上衣を着はじめたということにさえ、気づかないふりをしていた。他の医員たちも口ではなにも云わなかったが、彼を見るたびに皮肉な眼つきをしたり、唇にうす笑いをうかべたりするのが認められた。――こういう中で一人だけ、彼のためによろこび、それを正直に口に出して云った者がいた。それは台所で働いている、お雪という娘であった。お雪は登が上衣を着ているのを見るなり、まあと手を打ち合わせ、顔じゅうでこぼれるように微笑した。
「ようやく上衣をお召しなさいましたのね、よかったこと」とお雪は云った、「これでやっとあたしの勝ちになりましたわ」
「おまえの勝ちだって」登は訝しそうに訊いた、「誰かと賭けてでもいたのか」
「ええ」お雪はちょっと狼狽しながら、巧みに微笑でそれをつくろった、「賭けたといえば賭けたんですけれど、あたし保本先生がそういうお気持になって下さるようにって、願っていたんですの」
「そういう気持とは、どういうことだ」
「この養生所におちついて下さるというお気持ですわ」お雪は勇敢に云った、「あたしなんかが云うのはおかしいでしょうけれど、ここにはいいお医者さまが必要ですし、本当に医者らしいお医者なら、ここでお仕事をなさる気にならない筈はありませんもの、そうでしょう」
 登はそのとき気がついた。
 ――森半太夫の口まねだ。
 お雪が半太夫を恋しているということは、津川玄三に聞き、また狂女おゆみに付添っているお杉からも聞いた。半太夫は無関心らしいが、お雪は夢中になっているという。森さんのお堅いのは立派だけれど、お雪さんの気持を考えると憎らしくなる、とお杉は云った。登自身もときどき、二人で話しているようなところを見たことがある。通りかかった半太夫をお雪が呼びとめて、ちょっと立ち話をするといった程度であるが、いつかいちど、薬園の柵のところで、お雪が泣いているのを見かけたことがあった。――晩春の黄昏だったと思う。半太夫は腕組みをし、棒のように立って空を見あげており、その脇でお雪が、袂で顔を掩って泣いていた。かなりはなれていたうえに、登はすぐ眼をそむけて去ったが、うすく靄のかかった、片明りの光の中で、二人の姿は影絵でも見るような、非現実的なものかなしさを感じさせたものだ。
 ――たしかに、これは半太夫の口まねだ。
 登はそう思いながら、さりげない調子でお雪に云った。
「それは森の意見なのか」
 お雪はわるびれずに頷き、微笑した、「ええ、森先生もそう仰しゃっていますわ」
「おれにはおれで意見があるさ」そう云ってから急に登…

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