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葦は見ていた
あしはみていた
作品ID57551
著者山本 周五郎
文字遣い新字新仮名
底本 「山本周五郎全集第二十五巻 三十ふり袖・みずぐるま」 新潮社
1983(昭和58)年1月25日
初出「週刊朝日」1947(昭和22)年6月22日号
入力者特定非営利活動法人はるかぜ
校正者栗田美恵子
公開 / 更新2022-07-05 / 2022-06-26
長さの目安約 37 ページ(500字/頁で計算)

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本文より



 五月はじめの朝四時ごろ、――
 熊井川は濃い霧に掩われていた。まだあたりは薄暗く、どちらを見ても殆んどみとおしはきかない。川岸には葦が茂っていた、葦は岸から川の中まで、川の中の七八間さきまでも生え、それが川上にも川下にも続いている。岸は狭く、すぐ堤に接し、その堤は十尺余りの高さであるが、土質が脆いので、絶えずぱらぱらと土が崩れていた。特にひとところ、その崩れのひどい処があり、そこには段々に土が窪んで、人の登りおりした跡が出来ていた。
 風は少しもなかった。霧は動いているのだが、ほんの僅かに動いているだけで、よくよく眼をとめて見ないとわからないくらいだった。
 そこは川の彎曲部であった。観音寺の丘陵の端をまわった川が、大きく右に曲り、そこにひろい淀みをつくっている。葦はそのひろい淀みにびっしりと生え、そして互いの葉を重ねあっていた。――川波に根を洗われるためだろう、葉の茂みは絶えず(ごくかすかに)ふるえ、その白っぽい濃緑の葉は霧粒で濡れていた。
 一羽の鵜が飛び去った。川下から川上へ、霧が濃いのでかたちもおぼろだし、むろん翼の音もしないが、その飛びかたで鵜だということがわかった。
 堤の上から一人の若い女がおりて来た。
 あの段々に窪みの出来ているところから、灌木の枝につかまりつかまり、危なっかしい恰好で下へおりて来、そこでまわりを眺めやった。年はもう二十一か二くらいであろう。髪のかたちや着物の着かたで、水商売をしていたらしいことが想像される。小麦色の細おもてに、眉が濃く、眼尻のあがった、いかにも勝ち気らしい顔だちであるが、小さい肩や、そこだけ緊って肉づいた腰つきなどに、洗練された嬌めかしさと色気が感じられた。
 女は蒔絵の文筥を持っていた。その文筥はかなり古びたもので、結んだしで紐も太く、その紫の色もすっかり褪色していた。
 女は振向いて堤の上を見、それから川の向うを見た。遠くを見るときには、その眼が細くなり、眉間に皺がよった。やがて、――女は地面の上に文筥を置いた。そこは、絶えず堤から崩れる土で、少しばかり高くなっている。女はその高くなった処へ文筥を置き、それから着物の裾をからげて帯に挾んだ。下からは水色の縮緬の二布があらわれたが、女はさらにその二布をからげ、左右の端をしっかりと結び合せた。すると彼女のしなやかな、すんなりとかたちのいい脛が、膝のところまで剥きだしになった。
「これでいいかしら」女は呟いた、「ほかにしようがないわね、まあいいわ」と女は頷いた、「あんまり恥ずかしい恰好になりさえしなければいいんだから、――これでいいわ」
 女は帯をしらべ、着物の衿を直した。右手の小指で鬢の毛を掻きあげ、川の上下をうかがうように見た。
 空がやや明るくなり、霧が動きだした。
 女はそっと草履をぬいだ。霧で濡れた地面に、素足が冷たそうである。女は草履をきち…

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