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扇野
おうぎの
作品ID57556
著者山本 周五郎
文字遣い新字新仮名
底本 「山本周五郎全集第二十五巻 三十ふり袖・みずぐるま」 新潮社
1983(昭和58)年1月25日
初出「面白倶楽部」大日本雄辯會講談社、1954(昭和29)年5月号
入力者特定非営利活動法人はるかぜ
校正者栗田美恵子
公開 / 更新2022-05-05 / 2022-06-14
長さの目安約 69 ページ(500字/頁で計算)

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本文より



「うんいいね、静かな趣きだ」
 石川孝之介はそう云って、脇にいる角屋金右衛門に頷いた。
 ――なにを云やあがる。
 栄三郎は心の中でせせら笑った。
 孝之介は、藩の家老石川舎人の長男だという。年は栄三郎より五つ六つ若いだろう、二十六七歳と思えるが、家老職の子らしいおちつきと、すでに一種の威厳のようなものが備わってみえる。躯も顔もやや肥えてまるく、色が白く、だがその大きな(またたきをしない)眼には、意地の悪そうなするどい光りがあった。
「お上はたいそう冬の武蔵野をお好みあそばしますので」と角屋金右衛門が云った、「およそこういうものをと、私から古渓先生にお願い申したのでございます」
「閑寂な気分がよく出ている、悪くない」孝之介が云った、「この枯れた栗林がことにいい、いかにも武蔵野というふぜいだ、私も出府したとき江戸の近郊をだいぶ歩きまわったものだが、これは関口の大滝の上あたりを写したものではないか」
 金右衛門が栄三郎を見た。
「失礼ですが、それは栗林ではなく、くぬぎ林です」と栄三郎が答えた、「それにこれは、写生ではなくて絵ですから、どこそこの景色だなどということはありません」
 孝之介はこちらへ振返った、栄三郎は黙ってそれを見返した。
 彼は石川孝之介が気にいらなかった。べつにはっきりした理由はない、自分が直参の侍の出だから、家老の子などというと反撥を感じるのかもしれないし、また、絵がまだ纒まっていないからと断わったのに、どうしても見ると云い張った権柄ずくに肚が立ったのかもしれない。いずれにしても、初めて顔を見たとたんに、こいついやなやつだと思った。
 孝之介の唇が、ごくかすかに歪んだ。
「自信をもつというのはいいことだ」彼はこう云って、下絵のほうへ手を伸ばした、「しかし、これがもしこのまま襖絵になるのだとすると、肝心な、なにかが足りないように思うな」
「この絵にですか」
「そう、この下絵にね」
 孝之介は下絵の一部へ手を向け、伸ばして揃えた指を反らせて、その一部へなにかを塗るようなしぐさをした。
「ここだよ、この小径が林から出て、――くぬぎ林だそうだね、――この林から出て川の土橋へかかるこの部分に、さあ、なんといったらいいか、その、……」彼はわざとらしく口ごもり、首を捻った、「つまりもっとも肝心なもの、竜の眼、要するに点ずべき睛といったふうなものが、この辺になくてはならないと思う」
 栄三郎は微笑した。それは心の動揺を隠すためのようで、そのあとからたちまち顔が赤くなった。孝之介は振返ってそれを見た。大きな、またたきをしないその眼は、こちらの心のなかまで見透すようであった。栄三郎はなにか云い返そうとしたが、角屋の迷惑になると思って、じっと怒りを抑えていた。
「描きあがる頃にまた拝見しよう」孝之介はそう云って立った、「いやそのまま、送らなくともいい」
 刀…

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