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おれの女房
おれのにょうぼう
作品ID57567
著者山本 周五郎
文字遣い新字新仮名
底本 「山本周五郎全集第二十二巻 契りきぬ・落ち梅記」 新潮社
1983(昭和58)年4月25日
初出「講談雑誌」博文館、1949(昭和24)年11月
入力者特定非営利活動法人はるかぜ
校正者北川松生
公開 / 更新2019-11-08 / 2019-10-28
長さの目安約 48 ページ(500字/頁で計算)

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本文より



「またよけえなことをする、よしと呉れよ、そんなところでどうするのさ、そんなとこ男がいじるもんじゃないよ、だめだったら聞えないのかね、あたしがせっかく片づけたのにめちゃくちゃになっちまうじゃないか、よしと呉れよ、よけえなことしないで呉れってんだよ」
 その長屋の朝は、こういう叫び声で始まる。それは平野又五郎という絵師の家から聞えるもので、甲だかい調子の、すばらしいなめらかな早口である。するとそれを合図に、あちらでもこちらでも物音が聞えだす。
「おまえさんお起きな、先生のところで始まったよ、坊やもついでに起してね」
「そらお石さんの声が聞えるよ、のたのたしてないで薪を割って呉れなくちゃ困るよ」
「平野さんとこでもう聞えるよ、ぐずぐずしてちゃまにあわないよ、さあみんな手っ取りばやいとこ片づけてお呉れ」
 こういったぐあいで、しだいに路地うちが賑やかになり、その日の生活が動きだすのである。しかし平野の家ではそれで終ったのではない。まだ妻女のお石の高ごえが続いている。まるで野なかの一つ家にでも住んでいるような、隣り近所に少しの遠慮もない、ぱりぱりとした叫びかたで――
「おれの写生帖がないんだ、この机の上へ置いた筈なんだが」
「置いた筈ならそこにある筈じゃないか、置いたところを捜してみればいいじゃないか、いつでもそうなんだから、いやなにがない、なにはどこへ置いた筈だ、ない筈はない、滑ったの転んだのって、置いた筈なら置いたところを捜せばいいじゃないか、いけないよそんなところをひっくり返しちゃ、だめだってばさ、そんなとこに有りやしないよ、触っちゃいやだってのにね、あたしがちゃんと片づけといたんだからひっかきまわしちゃだめだよ、いけないってのにわかんないのかね、このひとは」
「――ここに有ったじゃないか」
「有ればいいじゃないか、有れば文句はないじゃないか、此処に有っただって、あたしが片づけといたんだもの有るに定ってるじゃないか、机の上へ置いた筈だのどうだのこうだのって、があがあがあがあ、騒ぐばかり大げさに騒いで、そうしちゃしまいにあたしに手数ばかりかけるんだ、いつかだっても――」
 又五郎は黙って部屋の中を眺めまわす。
 台所ではお石の甲だかい叫びが、ひっきりなしにいつはてるともなく続いている。不揃いな絵の道具、いじけたような安物の木机、角の欠けた茶箪笥、火桶、炭取り――家具といえるのはそれで全部だ。納戸の襖はもとより、古くなった畳にさえすり切れたところに渋紙が貼ってある。低い天床、雨のしみた跡のある剥げた壁……彼は眉をしかめ、溜息をついて、そうして写生帖をふところにつっこんで、惘然と土間へおりる。
「どうするのさ、どこへゆくのさ、もうおつけが出来ようってのにどうするんだよ、でかけるならごはんを食べてったらいいじゃないか」
「おれならいい、食べたくないんだ」
「食べた…

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