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落武者日記
おちむしゃにっき
作品ID57571
著者山本 周五郎
文字遣い新字新仮名
底本 「山本周五郎全集第十九巻 蕭々十三年・水戸梅譜」 新潮社
1983(昭和58)年10月25日
初出「講談雑誌」博文館、1941(昭和16)年4月号
入力者特定非営利活動法人はるかぜ
校正者北川松生
公開 / 更新2025-09-15 / 2025-09-12
長さの目安約 24 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

一の一

「もういけない、祐八郎、下ろしてくれ」
「なにを云う」
 大畑祐八郎は、叱りつけるように叫んだ。
「ここまで来て、そんな弱音を吐いてどうするんだ、元気をだせ、佐和山まではどんなことがあっても行くと云ったではないか、いいか、石に噛りついても頑張るんだぞ」
「いやだめだ、頼むから……下ろしてくれ」
 ほとんど担ぐように、肩へ掛けている田ノ口義兵衛の腕が急にぐにゃっと力をなくした。そして祐八郎が肩をつきあげるようにすると、義兵衛の体は、そのままずるずるぬけ落ちそうになった。
「おい田ノ口、おい!」
 祐八郎は驚いて、左手にある竹藪の中へ入って行って、友の体を肩から下ろした。……もう身を支えることもできないとみえて、濡れ雑巾のように倒れ伏すのを、祐八郎は援け起しながら、なんども名を呼びたてた。
「しっかりしろ、おい、田ノ口!」
「……無念だ、おれは」
 義兵衛は昏みゆく意識のなかから、ふいにしゃがれた声で大きく叫んだ。
「おれは、忘れないぞ、金吾中納言、犬め、松尾山の裏切り、……無念だ、無念だ」
「義兵衛、声が高いぞ、声が」
 肩を掴んで揺すりながら、祐八郎は、ふと藪の向うでなにか物音がするのを聞きとめた。……関ヶ原の敗戦からすでに三日、追及の手のきびしい関東軍の網の目のように張られた手配りのなかを、夜も日もなく逃げ廻って来た神経は、野獣の本能よりも鋭く、危険を嗅ぎつけることに馴れていた。
 ――誰かが、そこにいる。
 かさッとも動かぬ藪のかなたに、じっとこっちを窺っている者の姿が、祐八郎にはありありと感じられた。……それで強く義兵衛の肩を掴んで引き起そうとした。
「田ノ口、もうひと頑張りだ、立ってくれ」
「…………」
 返事はなかった。
「おい田ノ口、義兵衛!」
 耳へ口を寄せて呼んだ。それから相手の口許へ耳を押し当てた。……呼吸が絶えていた。祐八郎は慌てて腹帯を解き、鎧の胴をはずしてやろうとした。
 すると、そのとたんに、藪を押し分けて来る人の気配がした。
 ――みつかった。
 物音はすばやく近寄って来る。
「義兵衛、冥福を祈るぞ、……さらばだ」
 祐八郎はそう囁いて、静かに義兵衛の、もう生命の失せた亡骸を横たえると、近寄って来る物音とは反対のほうへ懸命に逃げだした。
「気付かれた、そっちへ逃げるぞ」
 うしろで叫びたてる声がした。
「外から廻れ!」
「鉄砲、鉄砲だ」
 噛みつくような喚きが、うしろからと、左手から押し包むように響いてきた。そして、ぴしぴしと竹の折れる音に続いて、ふいに右手で銃声が起った。
 だあん! だあん! だあん!
 祐八郎は思わず足を止めた。そして、押し包んでくる物音の方角を計ると、とっさに身をひるがえして、藪の疎らになっている一点へと走りだした。
 だあん! だあん!
 めくら撃ちに射たてる銃声とともに、竹林を走る弾丸の、から…

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