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あすなろう
あすなろう
作品ID57576
著者山本 周五郎
文字遣い新字新仮名
底本 「山本周五郎全集第二十九巻 おさん・あすなろう」 新潮社
1982(昭和57)年6月25日
初出「小説新潮」新潮社、1960(昭和33)年8月~9月
入力者特定非営利活動法人はるかぜ
校正者北川松生
公開 / 更新2022-10-19 / 2022-09-26
長さの目安約 40 ページ(500字/頁で計算)

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本文より



 うすよごれた手拭で頬冠りをした、百姓ふうの男が一人、芝金杉のかっぱ河岸を、さっきから往ったり来たりしていた。日はすっかり昏れてしまい、金杉川に面したその片側町は、涼みに出た人たちで賑わっていたが、誰もその男に注意する者はなかった。やがて、「灘久」と軒提灯のかかっている、かなり大きな居酒屋から、職人ふうの男が出て来、それを認めたこちらの百姓ふうの男が、すばやく近よっていった。二人は並んで歩きだし、百姓ふうの男がなにか訊いた。片方は首を振った。二人はなおも囁きあったが、町木戸のところで引返し、こんどは百姓ふうの男が、「灘久」の繩暖簾を分けてはいっていった。



「おめえ少し饒舌りすぎるぜ」
「これも女をものにする手の一つさ」若いほうの男が云った、「冗談じゃあねえ、あにいだってゆんべは結構しゃべったじゃあねえか」
「ちえっ、ゆんべだってやがら」年上のほうの男は右手の指の背で鼻をこすった、「おれがゆうべなにを饒舌った」
「この辺の生れで、なんでも大きなお店の二男坊だったとか、二階造りの家に土蔵が三戸前もあったとか、小さいじぶんから暴れ者で、近所の者はもちろん、可愛い妹まで虐めてよく泣かしたとか」
 年上の男は笑いながら首を振った、「でまかせだ」
「本気で云ってたぜ」
「でたらめさ、酔ってたんだ」と年上の男は酒を啜ってから云った、「生れたのは宇田川町、うちは小さな酒問屋だった、蔵というのは古い酒蔵が二棟で、一つは半分壊れかけていたっけ、子年の火事できれいに焼けちまったそうだがね」
「すると、うちの人たちは」
「酒が来たぜ」
 小女が燗徳利を二本、盆にのせて持って来た。年上の男が肴を注文し、若いほうの男は酒を調合した。空いている徳利へ、新しい徳利の酒を二割がた移し、脇に置いてある土瓶から薄い番茶を注ぎ足すのである。つまり番茶を二割がた混ぜたうえで、その酒を飲むのであった。
「おめえはふしぎなことをするな」と年上の男が云った、「そんなものを飲んでうめえか」
「松あにいは知らねえんだ、尤も初対面から三日しか経っちゃあいねえからな」と若いほうが云った、「こいつは番太のじじいに教わったんだが、こうして飲むと中気にならねえっていうんだ、茶が酒の毒を消すんだってよ、じじいは八十まで丈夫で、いつも安酒を絶やしたことがなかったが、現に中気にもならず胃を病んで死んだよ」
「するとおめえも、中気になる年まで生きてるつもりか」
「百までもな」と若いほうはやり返した、「生きられるだけ生きてたのしむつもりさ、たのしく生きる法を知ってる者には、この世は極楽だぜ」
「人を泣かして、てめえだけ極楽か」
「あにいは知らねえ、女ってものは泣くのもたのしみのうちなんだ」と若いほうは云った、「――おらあこれまでに、そうさ、十五人ばかり女をものにし、たのしむだけたのしんでから売りとばした、おかしなこ…

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