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暗がりの乙松
くらがりのおとまつ |
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作品ID | 57580 |
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著者 | 山本 周五郎 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「山本周五郎全集第十八巻 須磨寺附近・城中の霜」 新潮社 1983(昭和58)年6月25日 |
初出 | 「キング」大日本雄辯會講談社、1936(昭和11)年9月号 |
入力者 | 特定非営利活動法人はるかぜ |
校正者 | noriko saito |
公開 / 更新 | 2022-10-03 / 2022-09-26 |
長さの目安 | 約 25 ページ(500字/頁で計算) |
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一
居合腰になってすーと障子を明ける、そのまましばらく屋内のようすを聞きすましてから、そっと廊下へ忍び出た。とたんに、
[#挿絵]きりぎりす
袖も袂も濡れ縁に
隣の部屋から、さびた良い声で唄いだすのが聞えてきた。
「――またか!」
野火の三次は舌打をして居竦まった。
ここは伊豆の修善寺、佐原屋という湯治宿の二階だ。まだ駈け出しの小盗人野火の三次は、江戸の仕事に足がついて、どうやら体が危くなってきたから、二三年旅をかけて腕を磨こうと、草鞋をはいて入って来たのがこの湯治場であった。――この宿へ着いて十日め、早くもみかけためどが二つ。その一つは三日まえにこの佐原屋の二階の離室へ泊りこんだ客の、ずしりと重い懐中である、旅へ出ての手始め、三次は気負ってこいつを狙った。
ところがここに妙なことが起った。というのは、宿の寝鎮まるのを待って、三次が自分の部屋をぬけ出すとたんに、隣の部屋で端唄を唄いだす者がある――それがまた不思議に三次の胆へびんと響いて、どうにも足が竦んでしまうのだ。今夜もこれで二度目になる、
「畜生」
三次は口惜しそうに呟いた、「高の知れた端唄ぐれえが、なんでこんなに胆へ耐えるんだか、ぜんてえ訳が分らねえ……」
小首を捻る耳へ、嘲るように唄は続いた。よく聞けば箱根から先には珍しい薗八節である、何ともいえぬ渋い節回し、
[#挿絵]……様を待つ夜の窓の笹
露のけはいもあさましや
麻の葉染めの小掻巻――
こっちが部屋をぬけだすのと同時に、符牒を合せたように唄いだす相手。こいつぁ唯者でないぞと腕組みをした三次、
「まてよ。薗八節で文句はいつもきりぎりす、薗八節できりぎりす。どこかで聞いたことのある文句だぞ――」
しばらくじっと考えていたが、不意に、
「あっ、暗がりの乙松だ」
と膝を叩いた、「あいつだ、どうして今まで気がつかなかったろう、江戸であれほど評判を聞いていたのに――そうか、こんな処へふけ込んでいたのか」
暗がりの乙松といえば、天保三年八月お仕置になった鼠小僧次郎吉の二代目とまでいわれた大盗人である。鼠小僧が刑殺されて、ほっと息をぬいた諸侯や富豪の邸を狙っては、眼にも止まらぬ荒仕事をする有名な賊で、何十人という捕手に追われながら、いつも――薗八節できりぎりすを良い声に唄い残して逃げるというのが、奇を好む江戸っ児にやんやと喝采されていた。それが三年ほど前からふっつり姿を見せなくなったと思うと、計らずもこんな処で三次の耳に止ったのである。
「それで分った」
三次は頷いた、「乙松も離室を狙っているんだ、それでおれのぬけ出るたんびに邪魔をしやがるに違えねえ。こいつぁ面白えぞ――そう分りゃあこっちも意地だ、まだ駈け出しの三次が、みごと乙松を出抜いてみせようぜ」
にやりと冷笑した野火の三次は、まだ聞えている隣の唄へ、まる…