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あざみ
作品ID57582
著者山本 周五郎
文字遣い新字新仮名
底本 「山本周五郎全集第二十八巻 ちいさこべ・落葉の隣り」 新潮社
1982(昭和57)年10月25日
初出「小説新潮」新潮社、1959(昭和34)年1月
入力者特定非営利活動法人はるかぜ
校正者栗田美恵子
公開 / 更新2021-04-21 / 2021-03-27
長さの目安約 33 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 加川銕太郎は机に向って坐り、ぼんやりと庭のほうを眺めていた。部屋の片方では弟の佐久馬が、本箱を前にして書物の整理をしていた。
「またですか」と云う妻の声がした、「またいつものことを考えていらっしゃるのね」
 銕太郎は黙っていた。
 彼は両の肱で机に凭れ、両手で顎を支えながら、やや傾きかけた陽の当る、冬枯れの庭を眺めていた。赤錆色の、少しも暖かさの感じられないうすら陽は、林になっているくぬぎの木の幹を、片明りに染め、枯れた芒のくさむらの、ほほけてしまった穂を、鮮やかに白く浮き立たせていた。
 ――これは祖父の造った庭だ、と銕太郎は思った。
 くぬぎ林は百本ちかくある。林を縫って細流が蛇行し、板塀の外へと流れ出ている。板塀の外は「沼」と呼ばれる湿地で、蘆荻や蒲が密生してい、冬になると鴨や雁や鴫、鷭などが集まって来る。祖父の代にはそちらが四目垣になっていたので、沼のけしきはよく見えたが、父はそこへ板塀をまわしてしまったので、いまでは家の中からは見ることができなくなっていた。
 銕太郎の坐っている位置から見て、くぬぎ林は右手にあり、正面が百坪ほどの芒野。左手には小高く、芝を植えた築山がある。その裾から竹垣のところまでは、梅の老樹の疎林がひろがってい、竹垣の向うは、門から玄関へ通ずる敷石道であった。
「兄さん」と弟の佐久馬が手にした書物を見て云った、「これはなんと読むのかな、御なんとか花記というこれ、高楷宗恒という人の」
「おさばなの記だ」と銕太郎が答えた。
「へえ、この宇冠に最という字がですか」と佐久馬が訊いた、「これは雑書の部へいれますか」
「和学の中だ」と銕太郎が云った。
 くぬぎ林へ百舌鳥の群が舞いおりて来、やかましく叫びながら、枯れた枝のあいだを飛びまわった。
「仔細は申上げられません、どうぞなにもお訊きにならないで下さい」と妻のゆきをが云った、「このお願いを聞いて下さらなければ、私は自害するほかはありませんし、加川の御家名にも瑕がつくのです」
 終りの言葉は、銕太郎の耳の奥で、こだまのように長く、繰り返し尾をひいて反響した。御家名に瑕がつく、御家名に、瑕がつく、瑕がつく、瑕がつく、つくのです。銕太郎は静かに振向いた。妻のゆきをは化粧をしてい、鏡の中からこちらを見ていた。
 ――これはあとのことだ、と銕太郎は思った。
 かんじんなことはもっとまえだ。結婚したそもそものときから始まって、始まったことがわからないままで、悪いほうへと続いていった。
「なにが気にいらないんだ」と銕太郎は鏡の中の妻の眼を見ながら訊いた、「いったいなにが不満なのか、云ってみるがいいじゃないか」
「どうしてそんなことを仰しゃいますの」
「自分で知っている筈だ」
「わたくし不満などはございません」とゆきをは答えた、それは心の底に強い不満のあることを、証明するような調子であった、「あなたは…

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