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雨あがる
あめあがる
著者
文字遣い新字新仮名
底本 「山本周五郎全集第二十三巻 雨あがる・竹柏記」 新潮社
1983(昭和58)年11月25日
初出「サンデー毎日涼風特別号」毎日新聞社、1951(昭和26)年7月1日
入力者特定非営利活動法人はるかぜ
校正者北川松生
公開 / 更新2019-02-14 / 2019-01-29
長さの目安約 45 ページ(500字/頁で計算)
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本文より



 もういちど悲鳴のような声をあげて、それから女の喚きだすのが聞えた。
 ――またあの女だ。
 三沢伊兵衛は寝ころんだまま、気づかわしそうにうす眼をあけて妻を見た。おたよは縫い物を続けていた。古袷を解いて張ったのを、単衣に直しているのである。茶色に煤けた障子からの明りで、痩せのめだつ頬や、尖った肩つきや、針を持つ手指などが、窶れた老女のようにいたいたしくみえる。だがきちんと結った豊かな髪と、鮮やかに赤い唇だけは、まだ娘のように若わかしい。子供を生まないためでもあろうが、結婚するまでの裕福な育ちが、七年間の苦しい生活を凌いで、そこにだけ辛うじて残っているようでもあった。
 外は雨が降っていた。梅雨はあけた筈なのに、もう十五日も降り続けで、今日もあがるけしきはない。こぬか雨だから降る音は聞えないけれども、夜も昼も絶え間のない雨垂れには気がめいるばかりだった。
「泥棒がいるんだよ此処には、泥棒が」女のあけすけな喚き声は高くなった、「ひとの炊きかけの飯を盗みやがった、ちょっと洗い物をして来る間にさ、あたしゃちゃんと鍋に印を付けといたんだ」
 伊兵衛はかたく眼をつむった。
 ――珍しいことではない。
 街道筋の町はずれのこういう安宿では、こんな騒ぎがよく起こる。客の多くはごく貧しい人たちで、たいていが飴売りとか、縁日商人とか、旅を渡る安旅芸人などだから、少し長く降りこめられでもすると、食う物にさえ事欠き、つい他人の物に手を出す、という者も稀ではなかった。
 ――だが泥棒とはひどすぎる、泥棒とは。
 伊兵衛は自分が云われているかのように、恥ずかしさと済まないような気持とで、胸がどきどきし始めた。
 女の叫びは高くなるばかりだが、ほかには誰の声もしなかった。こちらの三帖の小部屋からは見えないけれども、炉のあるその部屋には十人ばかりも滞在客がいる筈である。なかに子持ちの夫婦づれも二た組いて、小さいほうの子供は一日じゅう泣いたりぐずったりするのだが、今はその子さえ息をひそめているようであった。
 女は日蔭のしょうばいをする三十年増で、ふだんから同宿者との折合いが悪かった。誰も相手になる者がなく、みんなが彼女を避けていた。もちろん軽蔑ではない。自分じぶんが生きることで手いっぱいな人たちには、職業によって他人を卑しめるような習慣も暇もなかった。かれらが女を避けるのは、彼女の立ち居があまりに乱暴で、棘とげしくって、また仮借のない凄いような毒口をきくからであった。つまりいちもくおいているわけであるが、彼女はそうは思わないようすで、常にあからさまな敵意をかれらに示していた。
 半月も降りこめられて、今みんなが飢えかけているのに、そんなしょうばいをしているためか、彼女だけは(乏しいながら)煮炊きを欠かさなかった。それは日頃の敵愾心と自尊心を大いに満足させているようであった。
「あんま…

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