えあ草紙・青空図書館 - 作品カード

作品カード検索("探偵小説"、"魯山人 雑煮"…)

楽天Kobo表紙検索

菊月夜
きくづきよ
作品ID57586
著者山本 周五郎
文字遣い新字新仮名
底本 「山本周五郎全集第十九巻 蕭々十三年・水戸梅譜」 新潮社
1983(昭和58)年10月25日
初出「講談雑誌」博文館 、1944(昭和19)年10月号
入力者特定非営利活動法人はるかぜ
校正者北川松生
公開 / 更新2024-08-16 / 2024-08-12
長さの目安約 33 ページ(500字/頁で計算)

広告

えあ草紙で読む
▲ PC/スマホ/タブレット対応の無料縦書きリーダーです ▲

find 朗読を検索

本の感想を書き込もう web本棚サービスブクログ作品レビュー

find Kindle 楽天Kobo Playブックス

青空文庫の図書カードを開く

find えあ草紙・青空図書館に戻る

広告

本文より



「珍しい到来物があったのでね。茶を淹れてきましたよ」
 若いはしたに茶道具を持たせて、そういいながらはいって来た母親のようすを見たとき、信三郎はすぐになにかはなしが出るなと思った。珍しい菓子というのは砂糖漬けの杏子だった。「あなたがお帰りだというので、疋田さまから届けてくだすったんですよ、絢子どののお手作りだそうです、召上ってごらんなさい」
「珍重なものでございますね」信三郎は、いわれるままに摘んでみた。しんなりとした歯ごたえの下から強い杏子の香が匂い、酸味と甘さの溶け合った、密度のこまかい味が舌の根までひろがってゆく、まさしく珍重というべきであるが、武家の質素な生活に慣れている者には、うまい、と思うよりさきに、贅沢だという感じのほうがつよくくる。――こういう味に狎れてはいけない、理屈でなく、そういう警戒をすぐに感ずるのだ。信三郎は一つ摘んだだけで壺の蓋をした。
「もっと召上れ……」
「いえもうけっこうです、茶をいただきましょう」
「あなたへといってくださったのだから召上がればよいのに、ではここへ置いておきますからね……」
「疋田どのがわたくしへというのですか」
 彼は不審そうに母を見た。疋田はこの鶴岡藩酒井家の重職のいえがらである。こちらは八百石の郡代で身分も違うし、これまで物を贈答するほど親しかったとはかつて聞いたことがなかった。それでも父の佐垣藤左衛門は郡代だし、兄の市九郎は書院番にあがっているから、どちらかへ贈り物ならまだしもわかる。けれども信三郎は二十三歳になるが部屋住であり、しかも幕府の法制を勉強するため江戸邸に四年いて、つい四五日まえに帰藩したばかりだった。重職の家から、息女てづくりの菓子を名ざしで贈られるなどとは、考えも及ばぬことだったのである。
「……ええ」母親はなぜか眩しそうに眼叩きをしながら頷いた。「この頃は絢子どのも、ときどきここへおみえになりますよ、老職のご息女とは思えないおしとやかな気質で、眉つきお眼もとのそれはお美しいかたです……」
「ご馳走さまでした」信三郎は茶碗を置いた。「少し書き物がございますから……」話題が見当のつかぬほうへ外れてゆくので、彼はそういいながら机のほうへ向き直ってしまった。
 数日して仕事の予備報告をするために、彼は奉行役所へ出頭した。四年かかったけれど、幕府の法制の研究は完成したわけではない。もう二年ばかり延期を願うつもりでいたところを、急に国許から呼び戻されて帰ったのだった。それゆえ彼は、予備報告をしたらそれを機会に、また研究継続を願い出る考えだったのである。……奉行役所支配は安倍孫太夫だった。提出した調書は受け取ったが、継続の願いは「いずれお上へ伺ったうえで」というだけで、あまり期待のできそうもないようすだった。
「本調書はできしだい呈上いたしますが、完全なものとは申上げ兼ねますので、ぜひもうし…

えあ草紙で読む
find えあ草紙・青空図書館に戻る

© 2024 Sato Kazuhiko