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あだこ
あだこ
作品ID57590
著者山本 周五郎
文字遣い新字新仮名
底本 「山本周五郎全集第二十八巻 ちいさこべ・落葉の隣り」 新潮社
1982(昭和57)年10月25日
初出「小説倶楽部」1958(昭和33)年2月
入力者特定非営利活動法人はるかぜ
校正者栗田美恵子
公開 / 更新2021-02-14 / 2021-01-27
長さの目安約 47 ページ(500字/頁で計算)

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本文より



 曽我十兵衛はいきなり小林半三郎を殴りつけた。
 そのとき半三郎は酒を飲んでいて、十兵衛が玄関で案内を乞う声を聞いた。誰もいないのだから出てゆく者はない。十兵衛は高い声で三度呼び、それから玄関の脇の折戸をあけて、庭へはいって来たのだ。
 ――津軽から帰ったんだな。
 半三郎はそう思いながら、あぐらをかいたまま飲んでいた。庭へはいって来た十兵衛は、縁先に立ってこちらを睨んだ。長い旅のあとで、肉付きのいい角張った顔が逞しく日にやけており、その大きな眼には怒りがあらわれていた。
「やあ」と半三郎が声をかけた、「帰って来たのか」
 すると十兵衛は沓脱から縁側へあがり、刀を右手に持って座敷へはいって来た。大股に近よって来る足つきで、彼が察したよりもひどく怒っていることを、半三郎は認めた。十兵衛は膳の前に立って、上から半三郎を見おろした。
「こんなざまか」と十兵衛が云った、「こんなざまだったのか」
 そして刀を左手に持ち替えると、右手をあげて半三郎を殴った。平手打ちであるが、高い音がし、半三郎の顔がぐらっと揺れた。
「そんなことをしてなんになる」と半三郎は持っている盃を庇いながら云った、「酒がこぼれるばかりだぜ」
 十兵衛の荒い息が聞えた。かなり強い平手打ちだったが、半三郎は少しも痛いとは感じなかった。十兵衛の荒い呼吸はそのまま怒りの大きさを示すようであったが、これまた半三郎には少しの感動をも与えなかった。
 十兵衛は坐って刀を置いた。半三郎は盃を呷って、さしだしたが、十兵衛は眼もくれずに云った。
「どうする気だ」
 半三郎は答えなかった。
「おれは昨日帰った、秋田と三枝と安部が来て、三人で夕飯を喰べた」と十兵衛は云った、「そのときすっかり聞いたが、おれはすぐには信じられなかった」
「おれの気持は話してある筈だ」
「それは二年まえのことだ、二年まえ、あのことがあったときに聞いたんだ」と十兵衛は云い返した、「去年おれが国目付を命ぜられて津軽へ立つまえ、二人だけで話した、もういい、このへんできまりをつけてくれ、これ以上はみぐるしいぞとおれは云った、そのとき小林はおれもそう思うと云った、おれもそう思うと云ったことを覚えているぞ」
「いまでも同じだ」と半三郎は高い空を風が渡るような声で云った、「自分がみぐるしくないなんて思ったことはいちどもないよ」
 彼はそう答えたのだ。やけでも、自嘲でもなく、自分の気持を正直に述べたのである。
 十兵衛は小林の家柄を考えろと云った。それも当然出てくる言葉なのだ、小林の家は祖父の代までは百石あまりの小普請にすぎなかった。それを父の半兵衛の代で、二百二十石余の書院番にまで仕上げた。父は酒も煙草ものまず、勤勉と倹約で一生を押しとおした。九年まえに母が病死したとき、父はまだ四十二歳だったから、後添の縁談がずいぶんあった。しかし父は首を振った。

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