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作品ID57596
著者山本 周五郎
文字遣い新字新仮名
底本 「山本周五郎全集第二十五巻 三十ふり袖・みずぐるま」 新潮社
1983(昭和58)年1月25日
初出「講談倶楽部」博文館、1954(昭和29)年8月号
入力者特定非営利活動法人はるかぜ
校正者栗田美恵子
公開 / 更新2022-08-29 / 2022-07-27
長さの目安約 39 ページ(500字/頁で計算)

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本文より



 布施半三郎はその淵をみつけるのに二十日あまりかかった。
 加能川には釣り場が多い、雇い仲間の段平は「三十八カ所ある」と云った。半三郎はひととおり見て廻ったが、自分の求めている条件に合うのは、その淵だけであった。――そこは七十尺ばかりの断崖の下にある。岩角や木の根をつたっておりるほかに道はない。対岸も同じような断崖で、淵はちょうど末すぼまりの袋のようになっている。川は右から曲って来て淵に入り、その淀みをぬけると左へ曲って川下へ下っている。したがってその淵はまったく他から隔絶しているし、人の来る心配もないといってよかった。
 半三郎は満足そうに頷いた。彼は断崖の下の平たい岩の上に立って、流れや淀みのぐあいを見たり、両岸のようすを眺めやったりした。
「申し分なしだ」彼は云った、「まるでお誂え向きだ」
 翌日、半三郎は支度をしてでかけた。
 釣道具は江戸から持って来てあった。袋へ入れた竿と餌箱。魚籠はなかった、彼の釣りには魚籠は要らないのである。雇い仲間の段平は、旦那が忘れたのだろうと思った。
「もし旦那」と段平は云った、「魚籠をお持ちなさらねえのですか」
 半三郎は「うん」といっただけで、振向きもせずに出ていった。
「おかしな旦那だ」段平は呟いた、「解せねえひとだ、どういうつもりだかさ――まあいい、おらの知ったこんじゃあねえ」
 段平は頭のうしろを掻き、手洟をかんで、薪を割るために裏へまわっていった。
 城下町からその淵まで、約一里二十町ばかりあった。はじめの一里は殆んど田圃の中の平らな道で、あとは坂道になり、終りの五、六町は特に急勾配の登りだった。梅雨のあけたあとで、日は暑く、平らな道は埃立っていたし、坂にかかると汗だらけになった。――そしてまた、竿と餌箱があるので、断崖をおりるのにも骨が折れた。
「こんなふうに触られると擽ったいだろうな、たぶん」
 断崖の途中で休みながら彼は呟いた。
「擽ったいかもしれないがね、おい」と半三郎は断崖に向って云った、「どうかおれを振り落さないように頼むよ」
 下へおりると川風があった、彼は初めて手拭を出して埃と汗を拭き、平らな爼板岩の、日蔭になったところへ腰をおろして、すっかり汗のひくのを待った。それから竿の支度をし、岩の端へゆっくり腰を据えたとき、彼は岩を手で叩きながら云った。
「頼むぜ、きょうだい」
 そのとき魚が跳ねた。淵から三段ばかり上に棚瀬があり、水が白く泡立って落ちている。魚はその棚瀬で跳ねたらしい。半三郎が眼をやると、また一尾、かなり大きな魚が跳ねて、棚瀬の向うへ姿を消した。
「鮠かな」と彼は云った、「川鱒かもしれない、うん、いるんだな」
 半三郎の見込に狂いはなかった。半刻ばかりのあいだに、彼は二尾の大きな鮠と山女魚を三尾あげた。彼は釣りあげた魚をすぐ水に放してしまう、魚を片手でそっと握り、釣鈎を外し、ち…

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