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かき
作品ID57599
著者山本 周五郎
文字遣い新字新仮名
底本 「山本周五郎全集第十八巻 須磨寺附近・城中の霜」 新潮社
1983(昭和58)年6月25日
初出「現代」1939(昭和14)年12月号
入力者特定非営利活動法人はるかぜ
校正者noriko saito
公開 / 更新2022-09-29 / 2022-08-27
長さの目安約 26 ページ(500字/頁で計算)

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本文より



「おい牧野、起きないか」
「勘弁して呉れ、本当にもう駄目だ」
「……仕様がないな」
 起しあぐねて兵馬は振返った。
「ちょっと手をかして呉れ小房、どうしても動きそうもないぞこれは」
「兄上さまがお悪いのですわ」
 小房はやさしく兄を睨んだ。
「幾らお止めしてもきかずに面白がってお飲ませなさるのですもの、こんなにお酔わせして了って、……きっとお苦しいわ」
「己もこんなに酔わせるつもりはなかったさ」
 兵馬は妹の非難をそらすように、酔い倒れている牧野辰之助を抱き起しながら、低い声で云った。
「なんだか今夜は妙に、牧野がなにか話しだしそうな気がしたものだから、酔わせれば楽に云えるだろうと思ってつい度を過して了ったんだ」
「なにか御相談ごとでもお有りでしたの」
「相談という訳ではないが、……なんだかそんな風に思えたので、……つまり」
 兵馬は妙に口籠って了った。小房はそれではっとしながら、慌てて寝衣をひろげ、辰之助の肩へと着せかけた。
「灯は持って行ってあるな」
「はい」
「では運んで行ってやろう」
 着替えをさせた辰之助の体を、兵馬は担ぐようにして次の間へ運び込んだ。
 婢のかねと共に酒席の後片付けをしてから、酔い覚めの水を持って小房が寝所へ入って行くと、暗くしてある有明行灯の光の下で、辰之助がふっと夜具の中から笑顔を見せた。
「すっかり御迷惑を掛けて了いました」
「いいえ却ってわたくし共こそ、……兄の悪い癖でとんだ御迷惑をお掛け致しました、お苦しゅうございましょう」
「なに本当はまだ酔ってはいないのです」
 辰之助は笑って見せながら、
「ああしないと兵馬はいつまでも飲ませますからね、酔った真似をしただけですよ。然し拙者も、兵馬のお蔭で段々と強くなりました」
「お水を召上るとお楽になりますわ」
「有難う、なに酔ってはいないんですから」
 そう云いながら、辰之助の眼は微笑したまま自然と閉じて了った。
 日頃から兄の面倒をみている小房には、顔色と呼吸の匂いで辰之助の悪酔いをしていることはすぐに分った、なんでもない風を装っているが、恐らくどうしようもないほど苦しいに違いない。……小房はそっと立上ると、耳盥に紙を敷いたのを持って来て枕許へ置いた。
 辰之助は荒い寝息を立てて眠っている。
 小房は脱ぎ捨てた辰之助の衣服をたたみながら、暫く寝息をうかがっていたが、どうやらそのまま眠るらしい様子なので、灯の具合を直してから静かに部屋を出た。
 もう既に大きな鼾をたてながら眠っている兄の様子をみて、自分の寝間へ引取ってからも、小房はなかなか寝つかれなかった。
 ――なにか話したい様子だった。
 そう云った兄の言葉が、頭のなかで生物のように躍っている。
 幼いときから兄と同じように馴れ親んで来た辰之助との数々の思い出が、いつか、渦の中に集まる木葉のように、小房の胸のなかでひと…

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