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菊屋敷
きくやしき
作品ID57601
著者山本 周五郎
文字遣い新字新仮名
底本 「山本周五郎全集第一巻 夜明けの辻・新潮記」 新潮社
1982(昭和57)年7月25日
初出「菊屋敷」産報文庫、大日本雄辯會講談社、1945(昭和20)年10月
入力者特定非営利活動法人はるかぜ
校正者北川松生
公開 / 更新2018-09-09 / 2018-08-28
長さの目安約 74 ページ(500字/頁で計算)

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本文より



 志保は庭へおりて菊を剪っていた。いつまでも狭霧の霽れぬ朝で、道をゆく馬の蹄の音は聞えながら、人も馬もおぼろにしか見えない。生垣のすぐ外がわを流れている小川のせせらぎも、どこか遠くから響いてくるように眠たげである、……露でしとどに手を濡らしながら、剪った花をそろえていると、お萱が近寄って来て呼びかけた。
「お嬢さま、もう八時でございます、お髪をおあげ致しましょう」
「おやもうそんな時刻なの」志保は眉を寄せるようにして空を見あげた、「……霧が深いので刻の移るのがわからなかった、それでは少し急がなくてはね」
「お支度はできておりますから」そう云いながらお萱は、まじまじと志保の顔を見まもり、まあと微かに声をあげた、「……たいそう今朝は冴え冴えとしたお顔をしていらっしゃいますこと、なにかお嬉しいことでもあるようでごさいますね」
「……そうかしら」志保は片手をそっと頬に当てた、「そういえば今朝はなんだかよいことがあるような気がして、……そんなことがある筈はないのだけれどね」
「そのように仰しゃるものではございません、虫の知らせというものはあるものでございますよ、それに今日は御命日でございますから、本当になにかよいことがあるかも知れませんですよ」
 そうねと笑いながら、志保は花を持って家へあがった。
 今日は亡き父の忌日である。父の黒川一民は松本藩士で儒官を勤めていた。朱子に皇学を兼ねた独特の教授ぶりを以て知られ、藩の子弟のほかにかなり遠くからも教を受けに来る者があり、それらはみな、城下の南にあるこの栢村の別墅の塾で教えていた。……一民が死んだのは二年まえのことだった。不幸にも男子がなく、志保と、その妹の小松という娘二人だけだったし、一民の遺志もあって、家はそのまま絶えることになったが、藩主の特旨で、栢村の屋敷に添えて終生五人扶持を賜わり、志保には村塾を続けてゆくようにとの命がさがった。妹の小松は五年まえに他へ嫁していた、越後のくに高田藩士で、栢村の塾生だった園部晋吾という者に望まれてとついだのである。晋吾は塾生のなかでも秀才であり風貌もぬきんでていた。小松も幼ない頃から美しく、少し勝気ではあるが頭のよいむすめで、二人の結婚はずいぶん周囲から羨やまれたものであった。そして夫妻は祝言をあげるとすぐ高田へ去り、父の葬礼に帰ったときにはもう二歳になる男子をつれていた。……正直にいって、そのとき志保は初めて妹に妬みを感じた、ひじょうに激しい妬みといってもよいだろう。妹と違って志保は縹緻わるく生れついた。それはまだごく幼ない時からの悲しい自覚だった。そしていつからか、――自分は学問に精をだそう、結婚などは生涯しないで、父のように学問で身を立てよう、そう思って一心に父に就いて勉強した。生れつき素質があったのか熱心のためかわからないが、年を重ねるにしたがってめきめき才能を伸ばし…

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