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![]() おかよ |
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作品ID | 57602 |
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著者 | 山本 周五郎 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「山本周五郎全集第十九巻 蕭々十三年・水戸梅譜」 新潮社 1983(昭和58)年10月25日 |
初出 | 「講談雑誌」博文館、1942(昭和17)年5月号 |
入力者 | 特定非営利活動法人はるかぜ |
校正者 | 北川松生 |
公開 / 更新 | 2025-06-17 / 2025-06-17 |
長さの目安 | 約 19 ページ(500字/頁で計算) |
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一
――ああこんどこそ。
おかよは縁台から立った。からだじゅうの血がかっと頭へのぼるようで、足がぶるぶるとひどくふるえた。跫音はまっすぐに近づいて来た。そして、すこし葭簾のはねてある入口からしずかにはいって来たのは、やっぱり待っていた弥次郎であった。おかよは全身が燃えるように感じ、舌が硬ばって、すぐにはものも云えなかった。弥次郎も黙っていた。……そとは星空で、まだ宵明りものこっていたが、葭簾で囲った小屋のなかは暗かった。
「よう来てくださいました」
おかよがやっとそう云った。弥次郎はちょっと身うごきをし、いつもの気弱そうな、ぶっきらぼうな調子で口ごもった。
「すぐお屋敷へ帰らなければ……」
「ええわかってます」おろおろとおかよはうなずいた。
「御用が多いものだから」
「わかってますわ、それだからあたし」おかよは男の言葉をさえぎって、手早く袂から小さな包み物をとりだした、「あたし、これを、これを持って来ましたの」
「……なんです」
「お札、お札なんです、戦場へいらしったらお肌へ着けて頂きたいと思って」
「……いや、わたしは多分、……わたしは、行かないで済むかも……」
弥次郎はひどく狼狽したように、手を振りながら口ごもった。それはちょうど子供が怖いものから逃げようとする身振りに似ていた、おかよにはそういう男の気持がよくわかった。
男は戦場へゆくのを恐れている。男は足軽だった、父の代から細川家の足軽で、十四の年に母を、その翌年に父を喪った、もともと気の弱い、ひっこみ思案の性質だったのが、孤児になってから一層ひどくなり、仲間もなく、いつも独りで蔭のほうに縮まっていた。おかよもやっぱり孤児だった。それではやくから伯母のやっている茶店で働いていた、茶店は木挽町の采女の馬場の傍にあり、すぐ前が細川越中守の中屋敷になっていた。……細川家の重臣たちはよく馬場へ馬をせめに来る、その供をしてくる足軽たちのなかに弥次郎もいた。
彼はいつも仲間から離れたところで、ひっそり腕組みをしては馬場を眺めていた。そのようすがあまり淋しそうなので、ある日おかよが茶を持っていってすすめた。彼は赤くなって断りを云った。それはまるで継子が思いもかけず菓子でも貰うときのような感じだった。それがきっかけで二人は少しずつ知り合うようになった。馬場のほうへおかよが茶を持ってゆくこともあり、弥次郎もときたま茶店へたち寄った。どちらもあまり口数はきかなかったけれども、「みなしご」ということがお互いの気持をかたくむすびつけた。
――あの方の気のお弱いのは、いつも独り法師だからだ、お心はあのとおりまっすぐだし、ご容子だって平の足軽とはみえないおりっぱさだし、お顔だちもりりしいし、おかよはよくそう思った。――運さえまわって来れば、きっと槍ひと筋のご出世をなさるに違いない。
そこへ島原の乱がおこった、ま…