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霜柱
しもばしら
作品ID57614
著者山本 周五郎
文字遣い新字新仮名
底本 「山本周五郎全集第二十九巻 おさん・あすなろう」 新潮社
1982(昭和57)年6月25日
初出「オール読物」文藝春秋新社、1960(昭和35)年3月
入力者特定非営利活動法人はるかぜ
校正者北川松生
公開 / 更新2022-11-03 / 2022-10-26
長さの目安約 30 ページ(500字/頁で計算)

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本文より



「繁野という老職を知っているか」
「繁野、――」石沢金之助は筆を止めて、次永喜兵衛を見あげた、「老職には二人いるが、どうかしたのか」
「としよりの家老のほうだ」
「御家老なら兵庫どのだろう、むろん知っているが、それがどうした」
「おれはつくづく」と云いかけて、喜兵衛は石沢の机へ手を振った、「もう片づくんじゃないのか」
「そう思っていたところだ」
「じゃあ下城してから話そう」と喜兵衛は云った、「中ノ口のところで待ってる」
 そして足早にそこを去った。
 老いぼれの、田舎者の、わからずやのへちゃむくれめ、次永喜兵衛は心の中でそう罵っていた。中ノ口を出て、木戸のところまでいっても罵り続け、石沢が来るまで、通りかかる下役の者たちが挨拶をしてゆくのに、ろくさま会釈も返さず悪口を並べていた。
「家でいっしょに夕食をしてゆかないか」石沢は来るとすぐに云った、「このごろあらわれないので家の者たちが心配しているぞ」
「一杯やりたいんだ」歩きだしながら喜兵衛は云った、「むしゃくしゃしてやりきれない、どうしても今日は一杯やりたいんだ」
「そんな気持で飲んだってうまくないだろう、とにかく家へゆくことにしたらどうだ」
「迷惑ならここで別れるよ」
「そろそろ癖が出るな」石沢は頭を振った、「そういう約束ではなかった筈だ」
「あんなくそじじいがいるとも云わなかったぜ」
「どこへゆくんだ」
「雪ノ井のほかにいい場所があったら教えてくれ」と喜兵衛が云った、「おちついて飲めるうちといえば雪ノ井がただ一軒、芸妓もいねえというんだからひでえ土地だ」そして吐きだすように付け加えた、「おれはまるでペテンにかかったような心持だぜ」
 石沢金之助は黙って歩いていた。
 大手門を出て堀端を右へゆき、蔵町から横井小路へぬけると馬場、その柵に沿った片側並木の道を左にまわり、明神の森につき当って、門前を右に二丁ほどゆくと大きな池のふちへ出る。雪ノ井という料理茶屋はその池畔にあるのだが、そこへゆくまでずっと、喜兵衛は休みなしに悪口を云い、女中に案内されて座敷へとおってからも、まだ舌の疲れはみせなかった。
 その茶屋は池に東面し、左右とうしろに松林がある。二人のとおされたのは西の端にある座敷で、二方に縁側があり、庭へおりる段が付いている。そこから池まで約二十尺、向うに小さな桟橋が出ていて、小舟は二はい繋いであった。――池の対岸は黒ぐろと樹の繁った丘で、それは城のある鶴ヶ岡と続いているのだが、その一部に鶴来八幡の社殿があり、そこは昔の砦趾だといわれていた。
「江戸屋敷に熊平という庭番のいたことを覚えているか」と喜兵衛が急に話を変えて訊いた、「右のこめかみのところに大きな瘤があったので、瘤平ともいわれたとしよりだ」
「上屋敷にか」
「梅林を受持っていた」
「覚えているようでもあるな」
「酒を早く」と喜兵衛は女中に云っ…

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