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三十二刻
さんじゅうにこく |
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作品ID | 57620 |
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著者 | 山本 周五郎 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「山本周五郎全集第十八巻 須磨寺附近・城中の霜」 新潮社 1983(昭和58)年6月25日 |
初出 | 「国の華」1983(昭和15)年9~10月号 |
入力者 | 特定非営利活動法人はるかぜ |
校正者 | noriko saito |
公開 / 更新 | 2024-03-14 / 2024-03-02 |
長さの目安 | 約 32 ページ(500字/頁で計算) |
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一
「到頭はじめました」
「そうか」
「長門どのでも疋田でも互いに一族を集めております。大手の木戸を打ちましたし、両家の付近では町人共が立退きを始めています」
「ではわしはすぐ登城しよう」
「いやただ今お触令がございまして、何分の知らせをするまで家から出ぬようにとのことです。騒動が拡がってはならぬという思召でしょう。しかし用意だけはいたしておきます」
父と兄とが口早に話している隣の部屋から、娘の宇女が間の襖を開けて現れた……面長のおっとりとした顔だちであるが、今は色も蒼ざめ、双眸にも落着かぬ光があった。
「兄上さま、ただ今のお話は本当でございますか」
「いま見てきたところだ」
「疋田でも一族を集めておりますの?」
「それを訊いてどうする」
父の嘉右衛門が睨みつけるのを、宇女は少しも臆せずに見返して、
「次第によってはわたくし、すぐにまいらねばなりません」
「なにを馬鹿な、おまえは疋田を去られたのだぞ。どんなことが起ろうと疋田とはもう関りはないのだ。いいから向うへ退っておれ」
「わたくし疋田の妻でござります」
宇女は平然と云った。
「……お舅さまの仰付けで一時この家へ戻ってはおりますが、まだ主馬から離別された覚えはござりませぬ」
「理屈はどうあろうと、嫁した家から荷物ともども実家へ戻されれば離別に相違あるまい、この方に申分こそあれ、疋田に負うべき義理はないのだ、動くことならんぞ」
「宇女……退っておれ」
兄の金之助がめくばせをしながら云った。宇女はもういちど父の顔を見上げた。そして落着いた声で、
「父上さま、宇女は疋田の嫁でござります」
そう云って静かに立った。
嘉右衛門はぎろっとその後姿を睨んだが、それ以上なにも云おうとはしなかった。金之助は家士を呼ぶために立っていった……このあいだに自分の居間へ入った宇女は、手早く着替を出して包み、髪を撫でつけ、懐剣を帯に差込むと、仏間へ行って静かに端座した。
宇女が疋田家へ嫁したのは去年、寛永十七年の二月であった……疋田は秋田藩佐竹家の老職で二千三百石だし、宇女の家は平徒士で二百石余の小身だったが、疋田の嗣子主馬が宇女をみそめ、たっての望みで縁が結ばれたのである。嘉右衛門は初めから反対だった。身分が違いすぎるのと舅になる疋田図書が権高な一徹人で、この縁組をなかなか承知しなかったという事実を知っていたからである。しかしついには主馬の懇望が通って祝言が挙げられ、宇女は疋田家へ輿入れをした……良人は愛してくれたけれども家格の相違に比例して生活の様式も違うし、そのうえ家士と小者を加えると八十人に余る家族なので、異った習慣に馴れつつこの人数の台所を預る苦心は大抵のことではなかった。
良人の主馬は中小姓であった。そして新婚半年にして、主君修理太夫義隆に侍して江戸へ去った。参勤の供だから一年有半の別れである。出立の前…