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三年目
さんねんめ
作品ID57623
著者山本 周五郎
文字遣い新字新仮名
底本 「山本周五郎全集第十九巻 蕭々十三年・水戸梅譜」 新潮社
1983(昭和58)年10月25日
初出「雄弁」大日本雄辯會講談社、1941(昭和16)年7月号
入力者特定非営利活動法人はるかぜ
校正者北川松生
公開 / 更新2025-12-28 / 2025-12-27
長さの目安約 24 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

一の一

「……どなたです」
 そう云って覗いた顔を見て友吉はまごついた。家を間違えたのかと思って慌てて左右を見回したが、間違えるはずはなかった。
「ここに角太郎という職人がいたはずなんですが、引越しでもしたんでしょうか」
「さあ……角太郎さんねえ」
 四十がらみの実体な男だった。「……聞いたことのねえ名だが、お豊……おめえ角太郎さんてえ人を知ってるか」
「そんな人は知らないねえ」
 障子の向うで面倒くさそうな声がした。
「私どもはこの三月に移ってきたんだが、そのまえには吉兵衛という同業の担ぎ呉服がいましてね、その男は一年ばかりここにいましたよ」
「そうですか。……そりゃあどうも、とんだお邪魔を致しました」
 友吉はとぼんとした気持で路地を出た。
 旅合羽に草鞋ばきで番傘をさしている。そのちぐはぐな恰好をそっくり写したような気持だった。……箱根を越すときからぶっ続けの雨は、江戸ではもう半月以上になるという、七月二十日だというのに袷を着てもいいほどの冷えかたであった。
「どうしたんだ、角のやつ」
 京橋八丁堀の裏街、暮れかかる道の上は足の甲を越すほど雨水が溜まっていた。
「いくら信りをしねえ約束だって、引越し先くれえ知らせてよこさねえ法があるか、……どこへ越しやがったんだろう」
 友吉は舌打ちをしながら呟いた。
 張詰めてきた気持が一時に崩れて、けじめのつかない、がっかりした頭の芯に、……ふとお菊の美しい眸が大きく描き出された。
「よう、友さんじゃあねえか」
「……え!」
「やっぱりおめえか、どうしたい」
 風呂帰りであろう、浴衣に平絎帯で手拭を持った三十七八の男が、傘を傾けながらやって来る。……友吉にとっては親方筋に当る大工の棟梁の息子で、仁太郎という道楽者だった。
「ああこれは、堀の若棟梁でございましたか」
「ずいぶん久しぶりの対面じゃねえか、なんだか上方へ行っていたってえが、いま帰って来たのかい」
「へえ、まだこんな恰好なんで」
「そうかい、それでおめえ……これから角のところへ行くつもりなんだろうが、角はいねえぜ」
「若棟梁はご存じですか」
「角はおめえお菊さんと夫婦になって、二年めえに旧のところは引越しちまった、なんでも今は深川辺にいるってえこったぜ」
「角が……お菊さんと……」
 友吉は足が震えるのを感じた。……仁太郎はふと往来なかだということに気付いたようすで、「どうだ友さん、久しぶりで会ったんだ、どこかで浴衣にでも着替えてひと口付合わねえか、……どっちにしてもその恰好じゃしようがあるめえ、いい家があるぜ」
「ありがとうござんすが……」
 お菊と角太郎が夫婦になったという、友吉にとっては信じられないことであったが、いま現に家を尋ねてすかを喰ったばかりなので、もしやという鋭い疑いが胸へつきあげてきた。……それで彼は仁太郎と付合う気になった。
 ――精…

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