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さぶ
さぶ
作品ID57624
著者山本 周五郎
文字遣い新字新仮名
底本 「山本周五郎全集第十六巻 さぶ・おごそかな渇き」 新潮社
1981(昭和56)年12月25日
初出「週刊朝日」 1963(昭和38)年1月4日号~7月5日号
入力者特定非営利活動法人はるかぜ
校正者砂場清隆
公開 / 更新2020-01-11 / 2019-12-27
長さの目安約 427 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

一の一

 小雨が靄のようにけぶる夕方、両国橋を西から東へ、さぶが泣きながら渡っていた。
 双子縞の着物に、小倉の細い角帯、色の褪せた黒の前掛をしめ、頭から濡れていた。雨と涙とでぐしょぐしょになった顔を、ときどき手の甲でこするため、眼のまわりや頬が黒く斑になっている。ずんぐりした躯つきに、顔もまるく、頭が尖っていた。――彼が橋を渡りきったとき、うしろから栄二が追って来た。こっちは痩せたすばしっこそうな躯つきで、おもながな顔の濃い眉と、小さなひき緊った唇が、いかにも賢そうな、そしてきかぬ気の強い性質をあらわしているようにみえた。
 栄二は追いつくとともに、さぶの前へ立ち塞がった。さぶは俯向いたまま、栄二をよけて通りぬけようとし、栄二はさぶの肩をつかんだ。
「よせったら、さぶ」と栄二が云った、「いいから帰ろう」
 さぶは手の甲で眼を拭き、咽びあげた。
「帰るんだ」と栄二が云った、「聞えねえのか」
「いやだ、おら葛西へ帰る」とさぶが云った、「おかみさんに出ていけって云われたんだ、もう三度めなんだ」
「あるきな」と云って栄二は左のほうへ顎をしゃくった、「人が見るから」
 二人の少年は橋のたもとを左へ曲った。雨は同じような調子で、殆んど音もなくけぶっていた。
「おらほんとに知らなかったんだ」とさぶが云った、「ゆうべ粉袋を戸納へしまってたときに、勝手で使うから一つ出しておけって、おかみさんに云われた、だから一つだけ残しといたんだ、そしたらその袋が出しっ放しになってて、おかみさんは使ったあとでしまっとけって、その袋を返したのに、おれがしまい忘れたっていうんだ」
「癖だよ、癖じゃねえか」
「粉が湿気をくっちゃった、へまばかりする小僧だって」さぶは立停って、手の甲で眼のまわりをこすりながら泣いた、「――おら、返してもらわなかった、そんな覚えはほんとにねえんだ、ほんとに知らなかったんだ」
「癖だってば、おかみさんはなんとも思っちゃあいねえよ」
「だめだ、おら、だめだ、ほんとにとんまで、ぐずで、――自分でも知ってた、とても続けられやしねえ、もうたくさんだ」さぶは喉を詰らせた、「おら、思うんだが、いっそ葛西へ帰って、百姓をするほうがましだって」
 広い河岸通りの、右が武家屋敷、左が大川で、もう少しゆくと横網になる。折助とも人足ともわからない中年の、ふうていのよくない男が二人、穴のある傘をさして、なにかくち早に話しながら、通りすぎていった。その男たちの、半纏の下から出ている裸の脛が、栄二にはひどく寒そうにみえた。さぶはあるきだしながら、小舟町の「芳古堂」へ奉公に来てから三年間の、休む暇もなくあびせられた小言と嘲笑と平手打ちのことを語った。それは訴えの強さではなく、赤児のなが泣きのような、弱よわしく平板なひびきを持っていた。大川の水がときたま、思いだしたように石垣を叩き、低い呟きの音を…

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