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蜆谷
しじみだに
作品ID57629
著者山本 周五郎
文字遣い新字新仮名
底本 「山本周五郎全集第二十巻 晩秋・野分」 新潮社
1983(昭和58)年8月25日
初出「新読物」公友社 、1947(昭和22)年3月号
入力者特定非営利活動法人はるかぜ
校正者栗田美恵子
公開 / 更新2021-10-02 / 2021-09-27
長さの目安約 29 ページ(500字/頁で計算)

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本文より



「こんなに鴨の寄らないこともないもんだ、もう師走という月でまるっきり影もみせない」風邪でもひいているような、ぜいぜい声でこう云うのが聞こえた、「もう十年もむかしだったか、沖の島の杓子岩のくずれた年だかに鴨の寄らないことがあった」
「なむあみだ、なむあみだ」別の声がうたうような調子でそう云った、「ばかな凍てだ、これじゃあまた明日は寝て暮らすだ、出て来なけりゃあよかった」
「猟場が変わったのもたしかだ、洲の鼻の千本杭から内湖のしりへかけて、去年はだいぶ捕れたというはなしだ、餌が片寄るからだろう」
 片方は水洟をすすってぶつぶつ口小言を云ったりしながら、彼らはしだいに湖のほうへと遠ざかっていった。
 ……弥之助はやがて稲村の蔭をそっと出た。あたりはまだ暗いが、もう間もなく明けるのだろう、気温は厳しく冷えはじめ、二日間なにも食べていない彼の全身は感覚をうしなうほどこごえてしまった。しかしもうひとつ丘を越えればいいのだ、足を強く踏みしめたり、両手で躯を叩いたりしながら、石ころの洗いだされている歩きにくい坂道を登ると、松林にはいってゆるく右へ曲がる、そこから十町ほどいったところで道が二つにわかれ、左へゆくともう青樹村の地内だった。
 下り坂にかかると沢の音が聞こえてきた。蜆谷の流れである。琵琶湖に向かって下る鈴鹿山脈の支峻が、もうほとんど平野に接する地形で、谷といっても深くはない、高さ三十間ほどのなだらかな丘と丘にはさまれた峡間を、犬上川へ落ちる川があって、質のよい蜆が多くとれる。湖畔の村々へ種蜆として出すくらいで、蜆谷という小名もそこからきたのだろう、子供のころから二十余年、朝な夕なに耳なれたその水音を聞いて、弥之助は胸がいっぱいになり涙がこみあげてきた。
 ――とうとう帰って来た、生きてあの水音を聞くことが出来た。
 心の中でそう呟やきながら、杉林をぬけくぐりつつかなり勾配の急な坂を下りていった。……土橋を渡り、平地へ出たところから麻畑になる、彼は裸になったその麻畑の細い畦道へはいり、藪をまわって地蔵堂の横へ出た、そこから一段低くなった杉林の中に、自分の家があるのだ。彼は道なりにゆくのがもどかしくて、地蔵堂を過ぎたところから下の畑へとびおりた、もうひとまたぎだ、杉林をつきぬければわが家の背戸である。しらみはじめた未明の光のなかに、もう家の屋根が見える。
 ――おっ母さん。
 彼はそう呼びたい気持でかけだしたが、杉林を出ようとして足を止めた。厨口から燈火の光がちらちらと見え、人の声が聞こえたから……家には母親のげんと妻のお直しかいないはずだ、しかしいまそこから聞こえてくるのはどちらの声でもなかった。彼は耳をすまして、誰の声か聞きとろうとした。すると燈火がふと消え、はなしごえが絶えて、表から誰か出て行くようすだった。彼はすばやく背戸へかけ寄り中のけはいをうかがって…

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