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失蝶記
しっちょうき
作品ID57630
著者山本 周五郎
文字遣い新字新仮名
底本 「山本周五郎全集第二十八巻 ちいさこべ・落葉の隣り」 新潮社
1982(昭和57)年10月25日
初出「別冊文藝春秋」文藝春秋新社、1959(昭和34)年10月
入力者特定非営利活動法人はるかぜ
校正者栗田美恵子
公開 / 更新2021-08-07 / 2021-07-27
長さの目安約 45 ページ(500字/頁で計算)

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本文より



 紺野かず子さま。
 この手記はあなたに読んでもらうために書きます。こういう騒がしい時勢であり、私は追われる身の一所不住というありさまですから、あるいはお手に届かないかもしれません。また、終りまで書くことができるかどうかもわかりませんが、もしお手許に届いたばあいには、どうか平静な気持で読んで下さるよう、はじめにお願いしておきます。
 いま私のいるところは、城下町から一里ほどはなれた山の中で、かなり近く宇多川の流れを見ることができます。西山での不幸な出来事、あの取返しようのない出来事があってから約十日、私はつぎつぎと隠れがを求めてさまよい歩き、三日まえからこの家の世話になっていますが、おそらく、またすぐに出てゆかなければならなくなるでしょう。いどころも、人の名もそのままは書きません。どういうことで迷惑をかけるかもしれないからです。しかしあなたにはおよそ推察ができるように記すつもりです。
 季候はすっかり夏めいてきました。今朝はやく歩きに出たら、山の林の中で石楠花の蕾が赤くふくらんでいるのをみつけ、胸の奥がせつなく、熱くなるように感じながら、暫く立停って眺めていました。聴力を失ってから、考えることが心の内部へ向くようになっていたためでしょうか、子供っぽい云いかたかもしれないが、赤くふくらんだ石楠花の蕾を見たとき、しんじつ胸の奥に火でも燃えだすような感じがしたのです。――ちょうど五年まえ、上町にあるあなたのお屋敷の裏を、私は杉永幹三郎と話しながら歩いていました。ご存じのように、私とは少年時代からの親友で、ものごころのつくじぶんから、片時もはなれたことがないといってもいいでしょう。年は同じで、生れ月は彼のほうが半年ほど早かったが、彼は私を兄のように扱ってくれました。二人だけのときはもちろん、他人のいるところでも。そして、それを言葉にも態度にもはっきりあらわすのです。思い返してみると、育英館の塾で三年いっしょでしたが、そのころから始まったようで、たぶん彼の人柄のためでしょう、いかにもしぜんなものですから、私のほうでも知らぬまにそれを受入れる習慣が付いてしまったようです。癸亥の年の密勅の件からはじまったこんどの事でも、杉永がつねに私の意見を支持したため、われわれ同志の者の行動はよく一致し、離反者などは一人も出さずに済みました。これは彼の人に愛される性格と、すぐれた統率力によるものと云うほかはありません。――上町のお屋敷の裏を歩いていたとき、私と彼は十九歳になっていました。私たちは法隆和尚のことを話しながら歩いていたのです。ご存じのように和尚は、井桁、西郡ら重職の懇請によって招かれた藩の賓客であり、経典はもとより儒学、政治、経済にも精しく、なかなか非凡な人物なのですが、時勢に対する見識には合点のいかないところがあるのです。一例だけあげますと、そしてこの問題こそ重要な…

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