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饒舌りすぎる
しゃべりすぎる
作品ID57634
著者山本 周五郎
文字遣い新字新仮名
底本 「山本周五郎全集第二十九巻 おさん・あすなろう」 新潮社
1982(昭和57)年6月25日
初出「オール読物」文藝春秋新社、1962(昭和37)年2月
入力者特定非営利活動法人はるかぜ
校正者北川松生
公開 / 更新2022-11-06 / 2022-10-26
長さの目安約 57 ページ(500字/頁で計算)

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本文より



 奉行職記録所の役部屋へ、小野十太夫がはいって来る。彼は汗になった稽古着のままで、ときには竹刀を持ったままのこともある。
「おい土田」と十太夫はどなる、「今日は帰りに一杯やろう、枡平へいこう、いいな」
 それから四半刻もするとまたやって来る。やっぱり稽古着のままで、額に汗が光っている。
「枡平はよそう、土田」と十太夫はどなる、「あそこは気取ってて面白くない、袖町のよし野で一杯やろう、いいな」
 また或る日は、やはり汗になった稽古着のままとび込んで来る。汗止めもそのまま、片手で袴を掴んで、湯気の立っているような顔で、せいせいと荒い息をしている。
「おい土田」と十太夫はどなる、「まだ終らないのか、まだ仕事があるのか」
 土田正三郎は黙ったまま、机の上をゆっくりと手で示す。まだ仕事の残っているときは、机の上には書類や帳簿がひろげてあり、硯箱の蓋があいてい、彼の手には筆が握られている。仕事がもう終っていれば、そこには書類も帳簿もないし、硯箱には蓋がしてあるし、机の上はきれいに片づいている。
「よし、道場へ来てくれ」と十太夫は片づいている机の上を見てせきたてる、「ちょっと道場へ来て相手になってくれ、癇が立ってしようがないんだ、一本でいいから相手になってくれ、さあいこう、おい、手っ取り早くしてくれよ」
 そこで土田正三郎は立ってゆく。道場は三の丸の武庫の脇にあり、刻限のまえなら門人たちがいるし、刻限過ぎでも次席の安川大蔵がいて、土田が稽古着になるのを助ける。早く来いよ、と十太夫がせきたてる。いつまでかかるんだ、手っ取り早くしろよ、じれったいな、などと云って足踏みをし、少しのまもじっとしていない。土田はすっかり道具をつけるが、十太夫は素面素籠手である。というのは、打ち込むのは十太夫で、土田は受けるだけだからだ。
「さあ」十太夫は竹刀でびゅっと空を切って叫ぶ、「ゆくぞ」
 土田正三郎は竹刀を青眼にとる。まだ門人たちがいる場合は、羽目板際に並んで見ているし、安川ひとりのときは、彼だけが祭壇の下に坐ってこの稽古を見る。十太夫はするどく絶叫し、大きく踏み込んだり、脇へとびのいたり、また土田の周囲を敏速に廻ったりする。絶叫の声は道場ぜんたいの空気をつんざくように聞えるし、床板はいまにも踏み破られそうに悲鳴をあげる。このばかげてやかましい物音と、眼まぐるしいほどの十太夫の動作に応じて、土田は竹刀を青眼につけたまま、ゆっくりと躯の向きを変え、つねに十太夫と正対するようにした。このあいだに幾たびか、十太夫は「引き太刀」という秘手をこころみる。十太夫自身のあみだした技で、この手にかなう者はないと定評がある。だが土田正三郎だけはその手にのらず、一度も打ちを取られたことがない。やがて十太夫は汗まみれになり、肩で息をしながら竹刀をおろす。
「これまでだ」と十太夫はどなる、「汗をながして来る…

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