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正体
しょうたい
作品ID57644
著者山本 周五郎
文字遣い新字新仮名
底本 「山本周五郎全集第十八巻 須磨寺附近・城中の霜」 新潮社
1983(昭和58)年6月25日
初出「アサヒグラフ」 1936(昭和11)年3月11日号
入力者特定非営利活動法人はるかぜ
校正者noriko saito
公開 / 更新2022-10-05 / 2022-09-26
長さの目安約 15 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

 龍助危篤という電報を手にしたとき、津川は電文の意味を知るよりも佐知子に会えるなと思うほうがさきだった。
「なんていうやつだ」
 それでも彼はいちおうそう云って自分を苦々しく反省したが、車で東京駅へかけつける気持には、すでにどう抗ってみても危篤の友を見舞うにふさわしいものはなくて、抑えても抑えてもふくれあがる女への情熱でいっぱいだった。
 佐知子とは彼女が龍助のあとを追ってフランスへ行くとき会ったきり手紙のやりとりもせず五年になる。
 三年まえに帰朝したという通知を龍助からもらったおりには、前後を忘却するほど感情の紊れに襲われたが、すでに二人は龍助の前では逢うことのできぬ関係になっていたから、そのときは無論のことその後もずっと相会う機会を避けるようにしていた。
 龍助は帰朝してから半年ほど、東京で画の仲間と生活をもったが、佐知子はチロルで喀血して以来ずっと健康をとりもどせずにいると云って須磨の家に残っていた。
 そして龍助が東京をひきあげるについて迎えがてら春服のモオドを見に彼女が上京すると聞いたときには、津川は反対にそのときかかっていた仕事の材料を集めに鳥取市へでかけてしまった。そんなことが二三度続いたあとで、
「どうしたんだ、君たちはまるでお互いに逃げあっているみたいじゃないか」
 と龍助が云ったりした。
 東京をひきあげると間もなく龍助の態度が変ってきた。もっともフランスから帰った時分にもう彼のようすは変っていたのだ、それまでは本当にただ金持のお坊ちゃんが画を描いているというだけで、性格から云っても人好きの良い派手なことのすきな、悪く云うと浮っ調子だった彼が、すっかり沈みこんで、口も重くなり動作も鈍くなり、ともすれば相手の言葉の裏をさぐるような暗い眼つきをするのだ、着物の好みなどもひどく地味になったし、相貌までが生気を喪って、いつも額を蒼くし眉を顰めているというふうになった。
 露悪的にしかものを表現することのできぬ仲間の一人は、
「杉田のやつは腎虚だぜ、あの女房はあいつの感覚には淫蕩すぎるんだ」
 と評したが、それはたんなる言葉として、その言葉のもつ印象にはしかし誰にも否定しがたい多分の実感があったのである。
 龍助はだんだんと仲間から離れていった。たまに上京することがあっても誰にも会わずに帰るし、三五人ある関西の友達ともまるっきり付合わなくなった。神戸にいる八木良太という友達があるときその状態を報告して、
「――彼はいまガラニスで妻君の裸体を描いているよ……おおお、神さま」
 と伝えてきたが、それが龍助の生活の最期の姿であった。

 神戸駅へ着いたのは午後六時だった。歩廊へ足をおろしたとき、津川は思わず軽い眩暈を感じて立竦んだ、彼はその瞬間に龍助の姿を見たのである、歩廊はいっぱいの人混だったがその人たちのあいだにいつも彼を出迎えるときっと立っている…

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