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初夜
しょや |
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作品ID | 57645 |
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著者 | 山本 周五郎 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「山本周五郎全集第二十五巻 三十ふり袖・みずぐるま」 新潮社 1983(昭和58)年1月25日 |
初出 | 「週刊朝日春季増刊号」朝日新聞社、1954(昭和29)年3月 |
入力者 | 特定非営利活動法人はるかぜ |
校正者 | 栗田美恵子 |
公開 / 更新 | 2022-09-15 / 2022-08-29 |
長さの目安 | 約 36 ページ(500字/頁で計算) |
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一
明和九年(十一月改元「安永」となる)二月中旬の或る日、――殿町にある脇屋代二郎の屋敷へ、除村久良馬が訪ねて来た。
脇屋の家は七百石の老臣格で、代二郎は寄合肝煎を勤めている。除村は上士の下の番頭で、久良馬は「練志館」の師範を兼ねていた。彼は代二郎より三歳年長の二十九歳、筋肉質の緊った躯で、色が黒く、はっきりと濃い眉や、いつも一文字なりにひき結んでいる唇や、またたきをすることの少ない静かな眼つきなどで際立って凛とみえる。背丈は五尺七寸あまり、少ししゃがれてはいるが幅のある、よくとおる声をもっていた。――玄関に立っている久良馬の姿を見て、代二郎はちょっと息をのんだ。久良馬の着物の片袖から袴の一部へかけて、どす黒く血に染まっていたからである。
「小森[#挿絵]蔵を斬って来た」久良馬は云った、「――川端の網屋で三人が会食しているのをつきとめ、踏み込んでいって斬った」
「一人でか」
「一人でだ」と久良馬は頷いた、「――[#挿絵]蔵は討ちとめたが、落合と井関は逃がしてしまった。落合にも一刀あびせたが浅傷だったらしい、残念ながらとり逃がした」
「その血のりはけがか」
「いや返り血だ」と久良馬は云った、「――二人を逃がした以上このまま腹は切れない、これから屋敷にたてこもって、討手とひと当てやるつもりだ、久保貞造、板土友次郎、丸茂源吾らが来る」
「いっしょにたてこもるのか」
「断わったのだが承知しなかった、人数はもっと多くなるかもしれない、ここへ寄ったのはそれを断わるためだ」と久良馬は云った、「――脇屋は妹と婚約しているが、初めからおれの説には反対だった。もし脇屋が来れば、桃世の縁にひかされたといわれる、それは脇屋にもおれにも迷惑だ、わかるだろう」
「考えてみるよ」
「いやその必要はない、おれははっきり断わる」と久良馬は云った、「――それから、妻と子はやむを得ないが妹は死なせたくない、桃世を引取ってもらいたいんだが、どうだ」
「もちろんだよ、云うまでもない」
「それで定った、頼むぞ」
こう云って久良馬は大股に去った。
代二郎はそのうしろ姿を見送った。去ってゆく久良馬の袴の裾のところが、横に五寸ばかり切り裂かれていて、そこから歩くたびに下の着物が見えた。久良馬は門を出るとすぐ右へ、振向きもせずに去っていった。――代二郎は居間へ戻った、家扶の小泉専之丞や、三人の若い家士たちが、脇の間で不安そうに坐っているのが見えた。久良馬の話を聞いたのだろう、久良馬の声は高かったし、その調子も平常とは違っていたから、母の茂登女も聞いたとみえ、代二郎が居間へ入るのを追って来た。
代二郎は机の前に坐った。その部屋は六帖で、北側に窓がある。机はその窓に向っているので、あけてある障子の外に庭の一部が見える。隣りは空地を隔てて御竹蔵があるが、庭の樹立が繁っているので蔵は見えない。三本ある古い…