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新潮記
しんちょうき
作品ID57646
著者山本 周五郎
文字遣い新字新仮名
底本 「山本周五郎全集第一巻 夜明けの辻・新潮記」 新潮社
1982(昭和57)年7月25日
初出「北海道新聞」1943(昭和18)年6月12日~12月20日
入力者特定非営利活動法人はるかぜ
校正者北川松生
公開 / 更新2020-08-29 / 2020-07-27
長さの目安約 316 ページ(500字/頁で計算)

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本文より

風雪の中




 嘉永五年五月はじめの或る日、駿河のくに富士郡大宮村にある浅間神社の社前から、二人の旅装の青年が富士の登山口へと向っていった。参道を掃いていた宮守の老人がそれをみつけて、「もしもし」と呼び止めた。
「あなた方はお山へお登りかな」
「ああそうです」背丈の低い方の青年がふりかえって答えた、叱られるとでも思ったものか、人の好さそうな円い顔が赤くなった、「そうです、これから登ろうと思うんですがなにか御禁制でもあるんですか」
「べつに御禁制というほどのことはありませんが、おまえさん方はもうお山には馴れておいでか」
「いや初めてですよ」
「剛力はお雇いでしょうな、荷を背負ったり道の案内をしたりする男です、下の宿でお雇いになったでしょう」
「それは、その、なんですか」
 青年は困ったようにますます赤くなり、つれの方へ救いを求めるような眼を向けた。しかしつれの青年はまるでこっちの問答など聞えもしないようすで、片方の脚にからだの重みを支えながら、岳樺の芽ぶきはじめたみずみずしい枝をうっとりと見あげていた。
「で、それは、その、雇うきまりになっているんですか、つまりその剛力というのを雇わないといけないことにでも」
 宮守の老人は笑いだした。
「わたしはそんなことをいっているんではないのです、お山開きは毎年六月で、そのまえにはよくお山が荒れるのです、朝のうちお天井まで晴れていても一刻すると大風が吹きだす、ひと晩のうちに五合目あたりまで雪のつもるようなことが、五月ちゅうにはよくあるのです、まったくのところお山開きまえの陽気の変りめは誰にも見当のつかぬことがあるのですからね、あなた方がもしお山になれていらっしゃるか、剛力でもおつれにならぬかぎりは危のうございますよ、わたしはこう申上げたかったわけです」
「ああ、それはどうも、どうも、それは御親切にありがとう、たしかにそのとおりでしょう、わたしもそれは聞いているのだが……」
「ほかの山とは違いますでな」老人は箒をつかいはじめながら云った、「このお山ばかりは血気にまかせて登るととりかえしのつかぬことになります、どうしてもお登りなら剛力を雇っておいでなされ、老人の云うことは肯いて損のゆかぬものです」
「まったく、いやたしかにそのとおりでしょう」
 かれはまたちらとつれのほうへ眼をやった。それから老人を見た。もうひと言すすめて貰いたいらしい。しかし老人は諄くは云わず、箒をつかいながら御手洗の方へと去っていった。するとそれを待っていたというように、つれの青年はしずかに、しかし大股のしっかりとした足どりで道を登りはじめた。
 南東の微風のわたる道を、二人はずんずん登っていった。
 背丈の高い方は武家であろう。腰に大小を差しているし、総髪にきゅっとひき詰めてむすんだ髪の横鬢に面擦れの痕がある。かなりひと目を惹く顔だちで、むしろ美…

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