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十八条乙
じゅうはちじょうおつ
作品ID57647
著者山本 周五郎
文字遣い新字新仮名
底本 「山本周五郎全集第二十九巻 おさん・あすなろう」 新潮社
1982(昭和57)年6月25日
初出「オール読物」文藝春秋新社、1962(昭和37)年10月
入力者特定非営利活動法人はるかぜ
校正者北川松生
公開 / 更新2022-11-08 / 2022-10-26
長さの目安約 27 ページ(500字/頁で計算)

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本文より



 その事のおこる五日まえ、西条庄兵衛は妻のあやに火傷をさせた。切炉で手がすべって湯釜を転覆させたとき、ちょうどあやが火箸を取ろうとしていて、その右手の先へ熱湯がもろにかぶってしまったのだ。叫び声をあげたのは脇にいた母のたえであった。あやはなにも云わず、庄兵衛は狼狽して、すぐに薬箱を取りに立った。母はあやの手にあり合う布を巻き、やけどの手当なら知っているからと、女中を呼びながら台所へいった。そしてうどん粉を酢でこねたものを作り、それをあやの手へ塗って、上から晒し木綿を巻いた。
「わるかったね、おれの粗忽だ」と庄兵衛は繰り返し詫びた、「痕にならなければいいが、大丈夫だろうか」
「大丈夫ですとも」気丈なあやは明るく頬笑んだ、「湯をかぶっただけですもの、そんなにおおげさに仰しゃらないで下さい」
 結婚して二年、まだ子を産まないせいか、あやは二十二歳になるのに娘らしさがぬけていない。実家の安田は三百石の寄合職で、父の勘五左衛門は隠居し、家督した長兄の又次郎には二人の子があった。あやは五人きょうだいの三番めであり、唯ひとりの女だったから、きびしい躾とともに、あまやかされて育った明るさと、暢びりした楽天的なところをもっていた。西条家は二百三十石、亡くなった父の世左衛門は大番がしらで勘定方取締を兼ねていたが、庄兵衛は郡奉行が兼務であった。姉がいたのだが生れるとすぐに死んだそうで、彼は一人息子だから、あまり丈夫でない母はあとの子が望めないと思ったのか、特に大切に育てようとし、父は反対に、そんなことでは侍にはなれぬと云って、ことさら手荒い躾をした。そのためか、それとも生れついた性分か、彼はいくぶん神経過敏で、こらえ性のない欠点があり、自分でもそれを撓めようとして、父の死ぬまえには、永平寺へいって百日ほど参禅したこともあったし、いまでも禅に関する書物は熱心に読んだ。
 あやの手は夜になると痛みだし、庄兵衛はむりに医者へゆかせた。笈川玄智という、祖父の代からかかりつけの老医で、武家町からひとまたぎの松屋町に住んでいた。女中を伴れていったあやは、帰って来ると母のいないところで、手当が間違っていたためひぶくれになるそうだと告げた。
「うどん粉を酢で練ったのは、筋の腫れやなにかに使うので、火傷には却ってわるいのですって」とあやは云った、「油でも塗って布で巻いて、すぐに来ればひぶくれにはしないで済んだ、と云っておいででした」
「すると痕になるのか」
「できるだけのことはやってみるそうです、でも先生はね」とあやは肩をすくめながら忍び笑いをした、「もう結婚していることだし、片輪になるわけではないから、痕ができるくらいどうでもよかろう、それより早く子を生むように心掛けるがいい、ですって」
「暢気なじいさまだ」庄兵衛は笑わなかった、「手の先のことだからな、ひっつれになると困るよ」
 五六日は…

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