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作品ID | 57650 |
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著者 | 山本 周五郎 Ⓦ |
文字遣い | 新字新仮名 |
底本 |
「山本周五郎全集第二十八巻 ちいさこべ・落葉の隣り」 新潮社 1982(昭和57)年10月25日 |
初出 | 「オール読物」文藝春秋新社、1957(昭和32)年10月 |
入力者 | 特定非営利活動法人はるかぜ |
校正者 | 栗田美恵子 |
公開 / 更新 | 2019-11-08 / 2019-10-28 |
長さの目安 | 約 56 ページ(500字/頁で計算) |
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一 彼に対する一族の評
祖父の(故)小出鈍翁は云った。
「平五か、そうさな、まあ悪くはあるまい、ばあさんが可愛がりすぎたから、少しあまったれのようだが、まあそう悪くはないだろう、すばしっこいところもあるし、いい養子のくちにでも当れば、案外あれで芽を出すかもしれない、そんなうまいくちはなかなかあるまいが、まあ、あれはあれでいいだろう」
祖母の(故)いち女は云った。
「あれはしっかりした子ですよ、敬さんや杢さんとはまるで性質が違います、上の二人よりもしっかり者です、おじいさんがあまやかすし、末っ子だからあれですけれども、芯はしっかりした賢い子です、ええ、あたしは孫たちの中では平五がいちばん好きですね、まあ長い眼で見ていてごらんなさい、あの子はきっとずぬけた出世をしますよ」
父親の小出玄蕃は云う。
「あいつはどうもかんばしくない、親の口からこんなことを云いたくはないが、いつか家名を傷つけるようなまねをするのではないかと危ぶまれる、第一に、あいつはこの父を尊敬していない、小さいじぶんからそうだ、一例をあげると、まだ赤ん坊のときだったが、さよう、生れて三十日も経ったころからだろう、あいつは私の顔を見るとべろを出した、そんな赤ん坊のことだからべつに意趣があったわけではないだろう、偶然だろうと思ったのだが、どうもそうではないらしい、ほかの者にはしないのである、私の顔を見るとべろを出すので、いいこころもちはしなかった、こんなことは誰に話すわけにもいかない、妻にさえ話したことはないが、その当時の侮辱されたような気持はいまだに忘れることができないのである、その後ずっとあいつのすることを見てきたが、すべてがうわっ調子で、侍の子らしくない、七千二百石の旗本の子であるという自覚がない、誰も知らないだろうが、たとえば饅頭のこと、古足袋や古肌着のこと、また道具屋のことなど、私はみんな知っているのである、じつに、なんと云いようもない、三河以来の由緒ある家柄を考え合せると、なんともなさけなくなるのである」
長兄の敬二郎が云う。
「あいつは末っ子のあまったれだ、末っ子は三文安いというが、祖父や祖母にあまやかされたのでおまけが付いてしまった、あのままでは養子のくちがあってもやれやしない、困ったやつだ」
母親のいつ女は云う。
「あたしにはあの子の気持がわかりません、あれは気ごころの知れない子です、末っ子だからあまやかしてはいけないと思って、できるだけ気をつけて育てたつもりですけれどね、いいえ、乱暴でもないしだらしがないというんでもありません。きょうだいじゅうではいちばん利巧でしょう、親に口返しをしたためしもなし、はいはいとよく云うことをきくんです、けれどそれはおもてだけで、はらの中はどうも人を小ばかにしているように思えてなりません、学問は聖坂へかよいましたし、武芸は道場が近いので柳生さ…