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須磨寺附近
すまでらふきん
作品ID57651
著者山本 周五郎
文字遣い新字新仮名
底本 「山本周五郎全集第十八巻 須磨寺附近・城中の霜」 新潮社
1983(昭和58)年6月25日
初出「文藝春秋」1926(大正15)年4月号
入力者特定非営利活動法人はるかぜ
校正者noriko saito
公開 / 更新2023-02-14 / 2023-02-10
長さの目安約 22 ページ(500字/頁で計算)

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本文より



 清三は青木に迎えられて須磨に来た。
 青木は須磨寺の近くに、嫂と二人で、米国の支店詰になって出張している兄の留守を預っていた、で、精神的にかなり手甚い打撃を受けていた清三は、その静かな友の生活の蔭に慰を求めたのであった。
 須磨は秋であった。
 青木の嫂の康子はひじょうに優れて美貌だった。彼女については青木がまだ東京にいた時分よく彼によって語られていたのでおおかたのことを清三は識っていた。
「君なら一眼で恋着するだろうなあ」
 青木は話の出るたびにかならずそう云ったものである、従って打明けて云えば、青木の暗示的な言葉は、彼女の写真を見たり性情を聞いたりすることに救けられて清三の心の中でいつのまにか育っていた。
 月見山の家に着いた夜、清三のために風呂が焚かれ、食膳には康子の手料理が並べられた。
「東京の人には何を差上げても不味いのでね」
 康子が云った。
「でも牛肉だけは自慢できますわ」
 清三は微笑しながら肉の煮えたつ鍋を見下ろしていた。今晩だけは特別だと云って、康子の手で麦酒が開けられた、清三も青木も顔の赫くなるほど飲んだ、清三はまたかねがね聞かされていた神戸の牛肉の美味さに頻繁に箸を鍋に運んだ。
「遠慮なぞしないで、ゆっくり遊んで行ってくださいね、二人きりで寂しいんですから」
 飯が終ると康子は女にしては鋭い瞳を動かせながら云った、清三はその瞳に威圧されるような気がした。康子は林檎をむいてくれた、清三は白い長い指が巧みに働くのと、果実の肌と刃物の触れ合う微妙な音を聞きながら、温い幸福な気持にひたっていた。
 茶がすんでから、康子が月が佳いから浜へ行こうと云い出した。麦酒でぼうとなっていた清三はすぐ応じた、青木も立った。
 浜には波がなく、淡い霧が下りて寂然としていた、三人の息は月の光を含んで白く冰った、青木は、月見頃になるとこの浜一面に藻潮を焚いて酒の宴を開く習慣があると話した、ことにそうしたとき、男たちよりも、女たちのほうがよけい騒ぐので、かなり婉めいた月見の戯が浜いっぱいに開かれるのだそうである、藻潮を焚いて月を待つという、歌めいた習慣に清三はなにか雅致のある懐しさを感じさせられた。
「おい相撲をとろう」
 足の甲までさらさら没してしまう深い砂地に出たとき、清三はそう云って青木の手を取った、二人は踏応えのない砂の上で揉み合った、康子は微笑しながら見て立っていた、二人は勝負のつかぬ先に労れてしまった。
「おい離せ離せ、息が切れて耐らん」
 青木はそう云うと砂の上に腰をおとした。
「弱い人たち」
 康子が月を背にして清三の顔を見下ろしていた、清三は手を腋の下にやった、そこが大きく綻びていた。
「ひどいやつだなあ」
 青木も腋の下を視たが異常はなかった。二人は大きな声を立てて笑った。静かに淀んでいた夜霧が、二人の笑声でゆらゆらと揺れて流れた、康子…

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