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その木戸を通って
そのきどをとおって
作品ID57652
著者山本 周五郎
文字遣い新字新仮名
底本 「山本周五郎全集第二十八巻 ちいさこべ・落葉の隣り」 新潮社
1982(昭和57)年10月25日
初出「オール読物」文藝春秋新社、1959(昭和34)年5月
入力者特定非営利活動法人はるかぜ
校正者栗田美恵子
公開 / 更新2021-06-22 / 2021-05-27
長さの目安約 46 ページ(500字/頁で計算)

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本文より



 平松正四郎が事務をとっていると、老職部屋の若い付番が来て、平松さん田原さまがお呼びですと云った。正四郎は知らぬ顔で帳簿をしらべてい、若侍は側へ寄って同じことを繰り返した。
「おれのことか、なんだ」と正四郎が振向いた、「平松なんて云うから、――ああそうか」と彼は気がついて苦笑した、「平松はおれだったか、わかった、すぐまいりますと云ってくれ」
 正四郎は一と区切ついたところで筆を置き、田原権右衛門の部屋へいった。田原は中老の筆頭で、松山という書役になにか口述していたが、はいって来た正四郎を見ると口述を中止し、書役を去らせて、正四郎に坐れという手まねをした。正四郎は坐った。
「おまえはいつか、江戸のほうにあとくされはないと云ったな」と田原が訊いた。
「はい、そう申しました」
「加島家と縁談の始まったときだ、覚えているか」
「はい、覚えています」
「私はおまえの行状を知っているから念を押して慥かめた、もしや江戸のほうに縁の切れてない女などがいはしないか、いるなら正直にいると云うがいいと、そうだろう」
 正四郎は頷いた。彼の顔にはほんのかすかではあるが、不安そうな、おちつかない色があらわれたけれども、それはすぐに消えて、こんどは力づよく頷き、そして確信ありげに云った、「仰しゃるとおりです、それに相違ございません」
 田原権右衛門は口を片方へねじ下げたので、皺の多いその顔が、そちらへ歪み、まるでべっかんこでもするようにみえた。
「では訊くが、いまおまえの家にいる娘は、どういう関係の者だ」
「私の家にですか」正四郎は唾をのんだ、「私の家には娘などおりませんが」
「いるから訊くんだ」
「それはなにかの間違いです」彼の語調はそこでちょっとよろめいた、「御承知のように、御勘定仕切の監査のため、私は三日まえからこの城中に詰め切っています、ですから、留守になにがあったかは知りませんが、三日まえに家を出るまでは」
「おまえの家に娘がいるのだ」田原はひそめた声できめつけた、「しかもそれを、加島どのの御息女が見て来られたのだ」
 正四郎は口をあいた、「――ともえどのがですか」
「ともえどのは昨日、おまえが非番だと思って訪ねてゆかれた」そこで田原はまた口を片方へねじ下げた、「手作りの牡丹を持参され、おまえが城中へ詰めていると聞かれたので、家扶の吉塚に壺を出させ、おまえの居間へ活けて帰られた、そのとき見知らぬ娘がいるので、どういう者かと問い糺したところ、吉塚助十郎はたいそう当惑し、すぐには返辞ができなかった、やがてしどろもどろに、主人を訪ねてまいったのだが、どこから来たとも云わず名もなのらない、もちろん自分も見たことのない顔である、と申したそうだ」
 正四郎の喉でこくっという音がし、眼には狼狽の色があらわれた。
「それはなにかの間違いです」と彼は心もとなげに云った、「そんな女は私にも…

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