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滝口
たきぐち
作品ID57653
著者山本 周五郎
文字遣い新字新仮名
底本 「山本周五郎全集第二十九巻 おさん・あすなろう」 新潮社
1982(昭和57)年6月25日
初出「小説新潮」新潮社、1963(昭和38)年11月〜1964(昭和39)年2月
入力者特定非営利活動法人はるかぜ
校正者北川松生
公開 / 更新2022-11-14 / 2022-10-26
長さの目安約 101 ページ(500字/頁で計算)

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本文より



 益村安宅が釣りをしていると、畠中辰樹が来て「釣れたか」と云った。益村は振り向きもしなかったが、声を聞いて畠中だということはわかった。益村は返辞をせず、畠中はその脇に腰をおろした。七月のよく晴れたひるさがりだが、うしろの崖に樹の茂みがあり、二人のいるところは日蔭になっているうえ、川から吹いて来る風があるので、少しも暑さは感じられなかった。
「なにか用でもあるのか」と益村がきいた。
「べつに」と畠中が答えた、「たぶんここだろうと思ったんでね」
 益村はゆっくりと頭をめぐらせて畠中の顔を見た。それからまた釣竿の先へ眼を戻した。畠中は話があって来たのだ。城下から一里半ちかくもあるこんな山の中へ、用もなしにやって来るわけがない。そして、その話の内容も益村には察しがついた。料亭「衣笠」のおりうとの噂が耳にはいり、その意見をしに来たのだろう、そう思ったけれども、益村はなにも云わなかった。
「少しは釣れたのか」と畠中がきいた。
 益村は脇に置いてある、乾いたままの魚籠を指さし、頭を左右に振った。
「それでも面白いのかい」
「この川は十洲川ともいうんだ」と益村は眼の前の流れをみつめながら云った、「――正確に数えると洲は十三ある、ここから三十町ほど上で始まって、川下の滝のところまでにな、――水はその洲の一つ一つにぶつかって分れ、また一つに合流し、そしてまた二つに分れる」
「豊水期にもこれらの洲は冠水することなく」と畠中が暗誦するように続けた、「またその数の増減する例もなし、これ珂知川のふしぎの一とす、――平州地誌に書いてあるさ」
「釣れても釣れなくっても」と益村は問いに答えた、「こんなことはかくべつ面白いものじゃないさ」
 畠中は黙っていたが、やがて水面を指さし、引いているぞと云った。けれども益村には聞えたようすがないので、もういちど「引いているよ」と注意した。
「魚じゃないさ」と益村は答えた。
「浮子を見ろよ」
「鉤がなにかにひっかかったんだろう」益村はそう云った、「心配するな、餌のない鉤に魚はくいつきゃあしないから」
 畠中は眼をみはって益村の顔を見、すぐにその眼を細めた。むっとしたのだろう、なにか云い返そうとして、二三度その唇をむずむずさせたが、思い直したようすで、逆に皮肉な微笑をうかべた。
「なにか困ったことでもあるんだな」
「あの木を知っているか」と云って益村は対岸のほうへ顎をしゃくった、「あそこに大きな濃い緑の木があるだろう、葉の表はひどく濃い緑だが、裏は白いんだ、そら、――風が吹きあげて葉裏が返ると、ぜんぶの枝に白い花が咲いたようにみえるだろう」
「だからどうした」
「頭のめぐりの悪い男だ」
「なにをそんなに悩んでるんだ」と畠中は励ますような口ぶりで云った、「――もうはらをきめてもいいころじゃないか、なにか故障でもあるのか」
 ははあそうか、と益村安宅は思…

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