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合歓木の蔭
ねむのきのかげ
作品ID57662
著者山本 周五郎
文字遣い新字新仮名
底本 「山本周五郎全集第二十一巻 花匂う・上野介正信」 新潮社
1983(昭和58)年12月25日
初出「新読物」交友社 、1948(昭和23)年9月号
入力者特定非営利活動法人はるかぜ
校正者noriko saito
公開 / 更新2022-09-06 / 2022-08-27
長さの目安約 28 ページ(500字/頁で計算)

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本文より



 誰かが自分を見ている。奈尾はさっきからそのことに気がついていた。もちろん右側の男たちの席からである、さりげなく振り向いてみるが、その人はすばやく視線をそらすとみえて、どうしてもその眼をとらえることが出来なかった。――こんど完成した二の丸御殿の舞台で、こけら落しとかいう、江戸から観世一座が呼ばれ、殿さまも安宅の弁慶をおつとめになる演能に、寄合以上の者が家族といっしょに拝見を許された。母のない奈尾は叔母のまさ女に付き添われて来たのだが、席へつくとすぐ叔母は知合いの婦人と会い、その婦人がさらに三人ほどつれを呼んできた。旧友がひとかたまりになったというかたちで、奈尾はいつか会話の外へ残されてしまった。……市蔵という兄だけでおんな姉妹もないし父が厳しくて稽古ごとなどもみんな師匠を家へ呼んで習ったから奈尾には友達というものがなかった。まわりを見ると同じ年ごろの娘たちはたいていつれがあって、おかしそうに耳こすりをしたり、ささやいたり[#挿絵]ぜをしあったりしている、慎ましくとりつくろっているだけ余計に楽しそうである。なかには男の席から会釈をおくられて、羞かしそうに赤くなる者や、勇敢に挨拶を返してつれの娘に叩かれる者などもいた。
「さあこんどは安宅ですよ奈尾さん、殿さまの弁慶は江戸ではたいそうな評判だそうですから、よく気をつけて拝見しましょうね」
 叔母がそう教えてくれた。奈尾は黙ってうなずいたが興味はわかなかった。もう三番ほど能役の演るのを見るのは見たけれども、言葉もしぐさもよくわからず、物語の筋もはっきりしないから少しも面白くないのである。――またあの眼が見ている。こっちの視野にははいらないが、その凝視が自分の顔に向けられていることはたしかだ。不愉快ではないがいらいらしてくる、舞台では安宅が始まった。見物席はこれまでと違った緊張におおわれ、鳴物もひときわ高く冴えて聞こえる。しかしやはりあの眼はこっちを見ていた。ときどき脇へそらすがまたすぐにこっちをじっとみつめる、右の高頬のあたりにそれがはっきりと感じられてるのである。……奈尾はその視線の当たるところが熱くなるように思った。するとそれが胸に伝わって、しぜんと動悸が強くなり、あまやかに唆るようなふしぎな幸福感に躯ぜんたいを包まれた。
 ――どなただろう、兄上のお友達かしら、奈尾を知っていらっしゃる方かしら。
 見覚えのある人を思いだしてみた。岩田半三郎の顔も想像したが、どれもいま見られている感じとはぴったりしない、その人たちなら見るにしてももっと違った見ようをするであろう、たしかに知らない人である、そしてそれは無礼なことなのだが、奈尾には少しも怒りの感情が起こらなかった。むしろあやされるような秘やかな歓びが胸にあふれて、十七になる今日までかつて知らなかった一種のするどい快楽のような感じにとらえられるのであった。
 …

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