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たてごし |
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| 作品ID | 57667 |
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| 著者 | 山本 周五郎 Ⓦ |
| 文字遣い | 新字新仮名 |
| 底本 |
「山本周五郎全集第十九巻 蕭々十三年・水戸梅譜」 新潮社 1983(昭和58)年10月25日 |
| 初出 | 「日本士道記」晴南社創立事務所、1944(昭和19)年12月 |
| 入力者 | 特定非営利活動法人はるかぜ |
| 校正者 | 北川松生 |
| 公開 / 更新 | 2025-11-09 / 2025-11-09 |
| 長さの目安 | 約 17 ページ(500字/頁で計算) |
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一
神原与八郎は豪快な生きかたを好んだ。からだはどっちかというと小がらなほうだが、肩腰の頑丈な逞しい骨ぐみだし、眉のあがった双眸の光りのするどい、いつも片方へひき歪めている唇つきなど、負けぬ気のつよさと軒昂たる意気をよくあらわしていた。起ち居ふるまいも言葉つきも颯爽として、大事に惑わず小事に拘泥せずという態度を常に崩さない、かくべつ大言壮語するわけではないが、なかなか辛辣な舌をもっていて、年功の者などをも屡々極めつけるようなことがあった。かれはくち癖のように「死にざま」ということを云った、もののふの鍛練は、つまるところ死にざまを究めることだ、そう云いきるのである、……戦場の心得などというものも数かぎりなくある、刀槍の法とか進退のみきりとか、迫場の急所とか、それぞれ秘伝のように説く者がある、けれどもそんなことは末節にすぎない、大切なのはその死にざまだ、勝敗いずれにしてもいさぎよい死にざまこそもののふの真の面目だ。幾たびとなく戦塵を浴び兵馬のうちに育ったような老い武者の前でも、確信のこもったくちぶりでそう云うのだった。もちろん単なる思いあがりではない、天正十八年の小田原攻めには十六歳で初陣しているし、征韓の役にも従軍した、そのときのはたらきぶりを認められて、二十三歳から槍組の三十人がしらを命ぜられている、つまりそう云うだけの経験があるので、出まかせの強弁でないことはいちおうたしかだった。……それにしても福島家には名高い勇士が多いので、与八郎くらいの身分や経歴では、さほど眼だつほうではなかったが、或るときかれは人の意表に出ることをやって、いっぺんにおのれの存在をはっきりさせた。
慶長三年の秋のことである、清洲城の外曲輪にある大崎玄蕃の屋敷で重陽の宴の催しがあり、与八郎も招かれて出た。玄蕃は鬼という名をとった豪勇の士だったし、席に列なる客の多くが名だたるつわもので、盃がまわりだすと活溌に戦場ばなしが始った、与八郎は身分も軽く、若年でもあるので、ずっと末席のほうに坐っていたが、昂然たる眉は一座を睥睨するかにみえ、大きくあぐらをかいた身構えにはどこかしら挑みかかるような壮志を示していた。そのうちに上座のほうからふとかれに呼びかける者があった、長尾勘兵衛といって三千五百石の老臣である、「……そのほうの死にざまという言葉はかねて人づてに聞いていたが」と勘兵衛が云った、「たしかにそれも誤りではないが、それだけにとらわれるのは褊狭だと思う、総じて戦場には是ひとつという心得はないものだ、時に応じ変に当って進退攻防の機は微妙をきわめる、そのとき死にざまなどに執着すると却って後れをとるものだ、そうひとすじにつきつめないで、もう少しのびやかな考えかたもあってよいではないか」「お言葉ですがそれはご尤もとは申上げかねます」与八郎は即座に答えた、「……こなたさまの時代には合戦もおうよう…